2023年02月20日

清風 2023年2月


南無阿弥陀仏
人と生まれたことの意味を
たずねていこう
(宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃テーマ)



人生とは ないものねだりの 歳月か 得てはすぐなれ 無くて欲しがる(朝日歌壇より)

本当に欲しいものは何だろうか?

29歳で出家し6年苦行をされた釈尊(上山の釈尊)は、35歳で苦行から離れ下山し(下山の釈尊)、山での苦行により衰弱した身を回復するため、しばらく養生をされました。
その養生に乳粥を供養したのが、スジャータという名の娘さんだったと伝えられています。この乳粥の供養を受けていた時に直感されたといわれる、次のような「言い伝え」があります。

乳粥の供養のおかげで、身には精気が、心には元気が回復してきた。この供養を受けられたのは、スジャータの一家が乳牛に草などの飼料を食べさせ、その草などが牛乳になったからである。
またその草も、大地に草の種が落ち、太陽の恵みや、雲が気象の変化によって雨となって地上へと降り注ぐなど、芽が出る条件が整ったことで草として成長できたのである。
そうであるなら、私のこのいのちは、宇宙いっぱいのハタラキを受けた、実に豊かな、豊穣な内容を持つのだ、と気づかれた。
やがて乳粥の供養によって元気になられたゴータマ・シッダールタは、ブッダガヤのピッパラ樹の下に草を敷いて、瞑想に入られた。
瞑想に入られて八日目の明け方、ゴータマは成道された(覚りを得られた)。その時「我は不死を得たり」(無死ではない)と宣言された。
この「不死を得たり」の宣言は、このいのちは豊穣なものであるという、スジャータの供養を受けられた折の気づきがあってのことと言える。
この豊穣ないのちについて、釈尊の次のような言葉が残されている。
「私は草であり、牛であり、大地である。」

この故事は、次のような物語にもなって伝えられています。
「そこを動くな、そこを深く掘れ。」、「そこで止まれ、そこで深く考えよ」と。

我が国では、一月一日は元日(正月)と言われています。
この正月の「正」の字は「一」と「止」の字から作字された表意文字として、「一に止まり、そこで深く考えよ。」と伝えられています。
ここで言われる「一」とは私の存在の事実を言い当てた言葉であって、「“唯一無二”の存在としての私である、その事実に気づけ」という仏からのうながし、あるいは「勅命・命令」であるとも言われます。

現代に生きる私どもは、科学技術のもたらした世界の中で「コスト(費用)とGNP(国民総生産高)」という数字による一元的評価基準にさらされて生きざるを得ません。
そのため、私という存在が「一」なるもの、つまり「唯一無二」という比較を超えた存在であることに気づけない、あるいは出会えない生活環境 ―個人の評価基準として、学歴や会社での地位など比較できるもの― に振り回され、左右されっぱなしという事態に押し込まれての生活を余儀なくされています。
(コスト…人の勤労に払う経費は人件費。人は代替可能品として扱われている。)

私たちはそうした思考にとらわれてしまっていることが、ほとんどなのではないでしょうか。
そういう時に「そこを動くな、そこで深く考えよ。」という言葉を通して、「私は先入観にとらわれて、身動きできなくなっているのかもしれない。」と、一度考えてみなさい、と呼びかけられていると思いますが、いかがでしょう。

「深く掘れ、深く考えろ。」の「深く」の文字に、それこそ先人からの暖かい「唯一無二性」の深い意味が込められているように思うのです。(続く)



  

Posted by 守綱寺 at 16:51Comments(0)清風

2023年02月20日

お庫裡から 2023年2月


NHKの大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。
なんとわが守綱寺は、三河一向一揆で家康に刃向かった一向宗の大将、渡辺高綱の子、一揆平定後に家康の家来となり、又、その家康を支えた家来16神将に数えられる渡辺半蔵守綱、その名がお寺の名前となっているのです。
家康と同年齢の守綱は槍の名手で、槍の半蔵と呼ばれ、家康の信頼も厚かったと聞いております。
家来の中にいた門徒さんたちは、皆、家康と同じ浄土宗に改宗されたようですが、渡辺さんは信仰を捨てなかったのです。
尾張徳川家を立てた時、犬山の成瀬、海津の竹腰と共に、渡辺家は軍事担当家老として高橋の庄(中心が寺部)を拝領、そこに墓所を作りました。
そうそう、寺部は家康の初陣勝利の場所です。そこを拝領したのです。
1639年、それまで横山御堂と呼ばれていた寺を守綱寺と改め、1644年、守綱さんの23回忌法要に合わせ、二代重綱、三代治綱さんが京都伏見城の軍議評定所を本堂に移築、山門、鐘楼、太鼓堂と伽藍が整備されました。
その後、一度も建て代わっていないので、本堂等4点は379年の歴史を見てきたことになります。
明治以降の荒廃で寺には何も残っておりませんが、本堂内陣のうぐいす張り、桃山様式と思われる欄間、狩野派の手になる大襖に、当時が偲ばれます。
この広い本堂に座ると、どうぞ南無阿弥陀仏のおいわれを聞いてくれよ、という渡辺家三代の願いが今も脈々と流れているのを感じます。
ドラマで守綱さんがどのように描かれるかも、興味のあるところです。

  

Posted by 守綱寺 at 16:50Comments(0)お庫裡から

2023年02月20日

今月の掲示板 2023年2月


修正会 浅田正作
何ひとつ
決めて守れぬ身と知れど
年新たなり 修正会
弥陀の誓いに
生きんと願う

一日一日を
初事 初事と
活きて
生きぬいて
生きよう  高光大船

人と生まれたことの意味を
たずねていこう

仏教では
自力のことを
分別といい
他力のことを
因縁という

人間というものは
自分の心を信用し過ぎる
それで心に
振りまわされる

はからっていたら きりがない

仏さんは厳しいのです
私を叱って下さるのが仏さま
仏は、私をたすけようと思ったら
私を厳しく叱らなければならん
それが仏の慈悲です

自分のした事に気がとがめる
それが宗教心

一つの事実に
色々はからいを固めて
我々は
荷物を
非常に重いものにする

われわれは
色々分別する
しかし、分別の通りに
なるのではない
因縁の通りになる

迷うには
迷うようになっている
法則が
ちゃんとある

因縁というのは
ものが在るようにあり
ことが起こってくる
一つの法則です

  

Posted by 守綱寺 at 16:50Comments(0)今月の掲示板

2023年02月20日

本堂に座って 2023年2月


先月に引き続き、河合隼雄さんの『こころの子育て〔誕生から思春期までの48章〕』から文章を紹介します。
今回は「豊かさとこころ」についてのお話です。

Q.豊かな時代なのに、なぜいろいろ問題が起きるのですか。
A.みんながこころを使うことを忘れているからです。

物が豊かになれば人生は楽になるはずだ――日本人はみんなが長い間、そう思ってがんばってきたんですね。
だけどそんなことはない、人生はむしろそれだけ難しくなるんです。
どうしてかというと、物が豊かになった分だけこころを使わないといけないからです。
それなのに豊かになると、どうしても物事を安易に物やお金で解決しようとして、こころを使うことを忘れる。
そこをちょっとサボってしまう。だからいま、子育てについても、問題がいっぱい出てきているんです。
豊かになると、世の中便利になってきます。便利になると、人間関係はどうしても希薄になってくるんです。
切符ひとつ買うのも、昔は駅員さんと顔あわせて「京都一枚」なんて言ってたのが、いまは機械でポンと出てくるでしょ。
買い物でまけてもらおうとしたら、お世辞のひとつも言わないといけなかった。ところがスーパーだったらもうまけてあるものねえ。
つまり「こころのエネルギーを節約して便利にしよう、それが進歩や」とみんな思い込みすぎたわけです。
かといって、物が豊富になったことを嘆いていてもしょうがない。
豊かになったときの生き方を探さなきゃいけないわけでね、「昔はよかった。節約してわれわれはつつましく生きておった」、そんなことを言っても何に
もならない。
それよりこれだけ物が豊富になったときに、子どもをどう育てるか、こころ豊かに生きるにはどうしたらいいかと、そっちの方を考えることが大事です。
昔は、こころを使うことをそれほど意識しなくても、物がなかったし、食べていくので精いっぱいだったから、知らず知らずにこころを使ってたんです。
親はなんとかして買ってやろうと努力するし、子どもは買ってもらいたいけれど、欲しいと言うのを我慢するしね。
だから豊かな時代には、子どもに楽しみを与えるにも、それぞれ家でコントロールしていかなければならない。工夫が要るんです。
それがこころを使うということです。
たとえば「うちは誕生日にしかデコレーションケーキは食べない」とか決めればケーキを食べるのが楽しみになるでしょう。
親がこころを使うと、子どもはこころが躍る体験をするわけです。
それが工夫なんです。毎日食べていたら、こころが躍りません。
本を買うにしても、物を買えない時代だとすぐには買えないから、子どもは必死になってお金を貯めるわけです。
お金が貯まるまでの間、節約もするし、手に入れたときのうれしさを想像したりもする。ずっとこころを使っているわけで、自然にうまくいっていたのです。
親が買ってやりたくても、お金がたくさんあるわけではないからすぐには買ってやれない。「ほんなら正月のお年玉に」と約束したりすると、いい具合に形がつくわけです。
ところがいまは子どもに「買って」と言われればだいたい買ってやれる時代です。
その時に親がこころを使って、「この本を買うのは、はたしてこの子のためにいいことだろうか」と考えてみる。
全集10巻をいっぺんに買った方がいいのか、今日は一冊だけ買う方がいいのか……。
「誕生日まで待ってね」と待たせた方がいいのか、「よしっ!」とすぐに買った方がいいのか、「うちではそんなもん買わんっ!」と言った方がいいのか……。
選択肢はいっぱいあるわけです。
いまはそうしたいと思ったら、どれでもできる。
ほんとの金持ちの家は、伝統的にちゃんとケチなシステムを持ってるんだけど、われわれ日本人は「成金」ですからね。
やっぱり、お金を使いたくてかなわんのですよ。
日本中がバブルとかで成金の悲劇になってしまった。
いま不景気になったというのは、こころを使う工夫をするにはチャンスかもしれません。




  

Posted by 守綱寺 at 16:49Comments(0)本堂に座って

2023年02月20日

今日も快晴!? 2023年2月


この1月に長男が成人式を迎えました。
長男に関わり、様々な形で支えて下さった皆さまに、改めて感謝の気持ちで一杯です。
子どもの誕生と同時に私も親にならせて頂き、子育てを通して(自分は何を大切にしたいのか?)と自問する機会を数多く与えて貰いました。
悩み、迷いながらの日々でしたが、子どもたちが「自分の頭で物事を考えることの出来る大人になること」は、私の子育ての目標でもありました。
劇作家・演出家である鴻上尚史さんがネット上に公開された「成人の日に寄せて」という文章がとても良かったので紹介したいと思います。
成人、おめでとう。でも、「大人になる」とはどういうことでしょうか?僕は、親や先生や先輩や友達の意見にただ従うのではなく、「あなた自身の頭で考えること」だと思っています。
自分の人生を自分で決めるということですね。けれど、これはとても難しいことです。
だって、日本の若者達はずっと「自分の頭で考えるな」という訓練を受けてきたからです。
日本の多くの中学校や高校では「中学生らしい」「高校生らしい」服装や髪形にしようと言われています。
けれど、「高校生」というイメージは、様々です。それぞれの人の頭には、それぞれのイメージがあります。
それを「高校生らしい」という一言でまとめるということは、「考えるな」ということです。
リボンの幅が3センチは「高校生らしい」が、4センチになると「高校生らしくない」ということを論理的に説得できる大人はいないと思います。
僕は愛媛県出身ですが、「愛媛県人らしい服装をして下さい」と言われたら、絶句すると思います。
あなたも「出身の都道府県人らしい格好をして欲しい」と言われたら混乱するでしょう。
それと同じくらい「高校生らしい服装」というのは定義不能なのです。
「服装の乱れは心の乱れ」という日本中でくり返される標語がありますが、大人に気付かれないように巧妙にいじめる奴らの服装は乱れているでしょうか。
陰湿な奴ほど、ちゃんとした服装をしていじめることをみんな知っています。
黙ってブラック校則に従え、疑問を持つなと教えられて来たのに、成人する時にいきなり「自分の頭で考える人になって下さい」と言われるのです。
ずっと「一人で泳ぐな!」と言われてきたのに、成人したらいきなり「一人で泳げ!」と言われるようなものです。
それは無理です。僕は、日本の若者に深く同情します。
が、嘆いてもしょうがないです。
自分の頭で考える訓練を始めるしかありません。そのためには、本を読んで下さい。
僕達は、国語の授業でずっと「退屈な本ほど価値がある」と思い込まされてきました。
でも、ワクワクドキドキしながら、本当面白く、あなたの生き方の役に立つ本が間違いなくあります。
本屋さんに行って、面白そうに感じた本の最初の1ページをとりあえず読んで下さい。
つまらなければ、すぐに次の本に移ります。
それでいいのです。
何十冊とくり返すうちに、あなたにぴったりの本がきっと見つかります。
読書は作者との対話であり、あなたの考えを深めます。
やがて、「自分の頭で考えること」が身につくようになるのです。
さあ、成人して、やっとあなたは自分の頭で考えていい世界に来たのです!
  

Posted by 守綱寺 at 16:49Comments(0)今日も快晴!?

2023年02月20日

清風 2023年1月


自己というのは問うたことがない
当たり前のことではないか、と
自明のことを
疑うということが 問いなのです
安田理深

本年もどうぞよろしくお願いします
        2023年 元日



吾人は絶対無限を追求せずして、満足し得るものなりや。
『臘扇記』(明治31年10月12日の記)清沢満之著

 「絶対無限を追求せずして」と言われていることを、日常の生活で感得されているエピソードを、紹介します。
 紹介するのは、東井義雄(1912~1991)先生が紹介されているものです。
 
 私の県の県立盲学校の6年生の全盲の子どもの言葉を聞かせていただき、ほんとうにびっくりしました。
 「先生、そりゃ、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔がみたいわ。でも見えたら、あれも見たい、これも見たいいうことになって、気が散ってあかんようになるかもわからん。見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸とは違うんやね」といったというのです。
  この子は全く見えない世界、光の無い世界を生きているのです。でも、何という明るさでしょうか。闇の世界にありながら、闇が闇のはたらきを失ってしまっています。
  光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています。    (以上 東井先生著『よびごえ』という冊子より)

 「見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸とは違うんやね」という発言から、この子が生きている立脚地を教えられる事です。目が見えない、これは事実のことです。その事実を「不自由」だと判断した時、同時に、それは「不幸」だという評価をします。そしてその評価こそが正しい判断であるとして、わたしどもは、疑わないのです。

 小6年の男子児童の返答を詠まれていかがだったでしょうか。
 聞法とはどんなことを聞くのでしょう。
 私どもは、「当たり前」という判断の前に、身の事実である、呼吸して生きているということの不思議さに全く注意がいかない、つまり「感性の劣化」に陥っていて、現代では、子どもから大人そして老人にいたるまでとにかく評価される者であれという強迫症に罹っている状態といっても過言では無いような状態です。

  成熟という言葉があります。生きものは成長し、て成熟するということでしょう。
 「稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな」という俳句もあるように。
 
 「絶対無限を追求せずして、満足し得るものなりや」この清沢満之先生の指摘は、人生とは「先生、不自由と不幸はちがうんやね」と言える智慧を頂くことにつきるのでしょう。「先生、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。でも見えたら、あれも見たい、これも見たいいうことになて、気が散ってあかにようになるかもわからん」。「あれも見たいこれも見たい」、そして気が散ってしまっている。現代人の忙しさは、ここからきているのですね。

  

Posted by 守綱寺 at 16:48Comments(0)清風

2023年02月20日

お庫裡から 2023年1月


あけまして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

暮れのある日のこと。
「どお、元気?」と、久しぶりに短大の友人からの電話。
四方山話を交わしながら、年齢の話に。
「ちょっと、私たち、来年には喜寿になるんだよ」
「ヒェー、77才」
「77才、喜寿だって。すごいねー。よーくここまで生きてこられたよね、私たち」
「若い時は、77才って、すごいおばあさんだと思ってた」
「まだ76才になったところだから(2人とも11月生まれ)か、自分たちは、自分をまだそんな年寄りだと思ってないよね」
「いや違う。私、糖尿の気があって、大好きだった甘い物を控えたら、5Kgも痩せて、シワも増えておばあさんになっちゃった」
「そうかー、身の事実は、思いを越えているんだね」
「私たち、もう残り時間、少ないね」
「お迎えがあるってことは必然だけど、死ぬ縁は無量、何時、何処で、どんな形のお迎えか、おまかせより仕様がないね」
「これから先、生きた分だけ嬉しいことに遇えるかもしれないし、生きた分、悲しいことに遇うかもしれない。『頂いたいのち、生きて在ることを喜ぼう』と生きようよ」
南無阿弥陀仏と手を合わせ、新しい年をスタートです。

  

Posted by 守綱寺 at 16:48Comments(0)お庫裡から

2023年02月20日

今月の掲示板 2023年1月


悲喜の涙 浅田正作
アタフタと
また一年が夢か幻
この夢幻のうちに流される
悲喜の涙の尊さよ
人間とは
その涙の容れものでした

生まれたほどの者なら
死ぬことは 当然
食って生きている以上
病気するのも当然
人はありのままの
当然なことを
知られたくない程
歪んでいる

何かと力みたい人に
人間の貧弱さを
つくづく思う

他力は自力を許さず
自力は他力を拒みます
他力は自分と別体に
他にいるものではなく
自力が消え失せる時
現れますから
他力なのです

人間の苦悩や不安も
正体を見つめることによって
影を消す

<自分>という殻が
自分を苦しめる
正体

他人という鏡がなければ
自分の殻は破れない奴だと
つくづく思われる

人間とは
自分で自分の始末の
仕切れない者の別名

人間がこの世に
人間の予想するような
幸福があると思うことから
間違っている

  

Posted by 守綱寺 at 16:47Comments(0)今月の掲示板

2023年02月20日

本堂に座って 2023年1月


 トイレ改修のために移動させていた本を片付けていたところ、河合隼雄さんの『こころの子育て〔誕生から思春期までの48章〕』という本が目に入りました。どの文章からも教えられることばかりですが、その中から一つを紹介します。

 Q.子どもがしていることがどうしても受け容れられません。
 A.そういう状況を、親も一緒になって作ってきたわけです。

 親がほんとに嫌っていることを子どもが好きになった場合は、親はものすごく考える必要があります。それ、ほんとに好きかって、絶対聞いてみる必要があります。
 高校生や中学生とのカウンセリングのときは、ぼくはほとんど好きなことの話から入ります。「パチンコが好きや」と言ったら、「ああ、そうか。どこがおもしろい?」とか、「なんでそんなにおもろいんや」とか聞いていると、「実は、あんまり好きではありません」なんて言いだす。
 ある大学生は「ぼくは楽しみのためにパチンコに行ってるんじゃなくて、パチンコを苦しみに行っているような気がする」と言いました。嫌なのにやめられない、と。そして「やめたら家に帰らないかん。それがかなわん。先生、パチンコへ行って、ほんとにパチンコを楽しんでいる人は、これはもう相当な人ですよ」。ほとんどは苦しみに行っている、って言うんです。「同じ苦しむんやったら、もうちょっと上手に苦しんだらどう?」「そうですねえ」。そんなふうになってきたら、話が変わってくる。こういうとき、どうしても「そんなんしたらダメやないか」と外側に立って物をを言いたくなる。そうではなくて「パチンコってそんなにおもろいんやろうか」って言ったら、スッと相手の気持ちの中に入るでしょ。それだけわかってくれるなら、もう少し話してもいい、自分の中の話をしてもいい、ってことになります。今まで蓋をしてたものが、一挙に外に出てくる。この大学生の場合は、自分が母親と対決することを避けるために、家に帰らないでパチンコをしていることに気づいていきます。そしてついにパチンコをやめて母親と正面から対決していくんです。
 しかし考えてみたら、子どもがそこまでパチンコにのめり込まざるを得ない状況を、親も一緒になって作ってきたわけです。だから、親が容認できないことを子どもがするときは、親は考える必要があります。ところがだいたいそういうとき、みんな自分のことは棚に上げて「変な子どもになってしまった」とか「おれの子どもにしてはどうも」とか言ってます。でも「おれの子どもだから」そうなったんです。
 子どもの話を聞くときに、共感するのが大事だとわかっていても、たとえばぼくらにしても、「パチンコが好きや」と聞いた途端にパチンコのおもしろさがわかることはまずないです。だから相手のこころの側へ沿っていって話を聞いていくんです。わからないのに、わかったように「うん、わかるわかる、お父さんが憎いやろね」なんてカウンセラーが聞いていたら、子どもは「お父さんを殺します」というところまで行ってしまう。それは「父親を殺す」ということでしか表現できないところへ、カウンセラーが追い込んでいるんです。「わかるわかる」と口では言ってるけど、ほんとはわかっていないことが子どもに伝わってるから、子どもはもっと激しい表現をしてくるんです。それを距離にたとえて言うと、遠いところにいる人に言おうと思ったら、怒鳴るよりしょうがないですね。近くにいる人だったら小さい声で言えるけど、遠かったらワーッと大声を出さなければならない。それと同じことで、物わかりの悪いやつには「親父を殺す」とまで言わないとわかってもらえない。そういう表現でしか通じないからそこまで言うんです。それは親子でも同じです。親が気がつかなければ、子どもはどんどん激しいことをやってきます。そういうときは、親は自分自身についてよく考えないといけない。実際、盗みをした子が言ったことがありますよ。「せっかく盗みまでしたのに、親はまだわかってない」って。
(『こころの子育て』河合隼雄 著 朝日新聞出版発行より引用しました)


  

Posted by 守綱寺 at 16:46Comments(0)本堂に座って

2023年02月20日

今日も快晴!? 2023年1月


 長男が中学校に入学してから足かけ8年、中学の読み語りボランティアに参加しています。読み語りボランティア仲間と「もう中学になると、子どもがボランティアで絵本を聞いてくれているんだよね。」と苦笑いしながらも、普段はなかなか足を運ぶことのない中学校の様子を見ることが出来る楽しみな活動です。子どもから「学年の最後の読み語りは、自分のクラスに絵本を読みに来ても良いよ」とお許しを貰えたので、3年生の最後の読み語りになる12月は、娘のクラスに入らせて貰いました。中学生になると、自分の親が教室に絵本を読みに来るなんて恥ずかしくてたまらないと思うのですが、「最後の回なら来ても良いよ」と言ってくれる我が家の子どもたちは優しいなと思います。
 中学生の貴重な15分を貰っているのだから、何か伝わる内容のものをと思い、絵本選びは毎回四苦八苦しています。試行錯誤しながら選び続け、ここ数年は、『世界で一番貧しい大統領のスピーチ』、『赤ちゃんの誕生』、『福島から来た子』などに落ち着いています。娘のクラスで読む絵本は、娘と相談して『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア作 童話屋)にしました。哲学者でもあるバスカーリアが書いたこの絵本は、1998年に発売された時にはベストセラーとなりました。「いのち」をテーマにして、「死」という言葉が繰り返し出てくる大人向けの絵本です。
 フレディは、春に生まれた葉っぱです。夏におひさまの光を一杯受けて成長し、秋には紅葉して同じ木に生まれた仲間達と、それぞれの色に変わります。そして冬には、風に吹かれた葉っぱ達は次々地面に落とされて行きます。フレディが親友のダニエルと交わす会話には、毎回はっとさせられます。子どもたちに絵本を読んでいるときも、「引っ越しをするとか、ここからいなくなるとかきみはいっていたけれど、それは―――」「死ぬ ということでしょう?」「ぼく 死ぬのが怖いよ。」というフレディの台詞を読むとき、教室はシーンと静まり返ります。「この木も死ぬの?」「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ」「世界は変化し続けているんだ。…死ぬというのは変わることの一つなのだよ」。冬が来て、フレディにもいよいよ「そのとき」がやってきます。迎えに来た風に乗って、枝を離れて地面に落ちました。引っ越し先はふわふわして居心地の良いところだったのです。フレディは静かに眠りにつきます。「冬が終わると春が来て 雪は解けて水になり 枯れ葉のフレディは その水に混まり土に溶け込んで 木を育てる力になるのです」「“いのち”は土や根や木の中の 目には見えないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備しています。大自然の設計図は寸分の狂いもなく“いのち”を変化させ続けているのです。」
 フレディのように、「死ぬのが怖い」、「ぼくは生まれてきて良かったのだろうか?」と子どもたちが悩んだときに、この絵本を手に取って貰えたら良いなと思います。フレディは「葉っぱに生まれて良かったな」と思います。フレディのように、「わたしがわたしに生まれて良かったな」と思えるような人生を歩んで下さいという仏さまの願いも、絵本を通して子どもたちに届くと良いなと思いながら、教室をあとにしました。

  

Posted by 守綱寺 at 16:45Comments(0)今日も快晴!?