2023年02月20日

清風 2023年2月

清風 2023年2月

南無阿弥陀仏
人と生まれたことの意味を
たずねていこう
(宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃テーマ)



人生とは ないものねだりの 歳月か 得てはすぐなれ 無くて欲しがる(朝日歌壇より)

本当に欲しいものは何だろうか?

29歳で出家し6年苦行をされた釈尊(上山の釈尊)は、35歳で苦行から離れ下山し(下山の釈尊)、山での苦行により衰弱した身を回復するため、しばらく養生をされました。
その養生に乳粥を供養したのが、スジャータという名の娘さんだったと伝えられています。この乳粥の供養を受けていた時に直感されたといわれる、次のような「言い伝え」があります。

乳粥の供養のおかげで、身には精気が、心には元気が回復してきた。この供養を受けられたのは、スジャータの一家が乳牛に草などの飼料を食べさせ、その草などが牛乳になったからである。
またその草も、大地に草の種が落ち、太陽の恵みや、雲が気象の変化によって雨となって地上へと降り注ぐなど、芽が出る条件が整ったことで草として成長できたのである。
そうであるなら、私のこのいのちは、宇宙いっぱいのハタラキを受けた、実に豊かな、豊穣な内容を持つのだ、と気づかれた。
やがて乳粥の供養によって元気になられたゴータマ・シッダールタは、ブッダガヤのピッパラ樹の下に草を敷いて、瞑想に入られた。
瞑想に入られて八日目の明け方、ゴータマは成道された(覚りを得られた)。その時「我は不死を得たり」(無死ではない)と宣言された。
この「不死を得たり」の宣言は、このいのちは豊穣なものであるという、スジャータの供養を受けられた折の気づきがあってのことと言える。
この豊穣ないのちについて、釈尊の次のような言葉が残されている。
「私は草であり、牛であり、大地である。」

この故事は、次のような物語にもなって伝えられています。
「そこを動くな、そこを深く掘れ。」、「そこで止まれ、そこで深く考えよ」と。

我が国では、一月一日は元日(正月)と言われています。
この正月の「正」の字は「一」と「止」の字から作字された表意文字として、「一に止まり、そこで深く考えよ。」と伝えられています。
ここで言われる「一」とは私の存在の事実を言い当てた言葉であって、「“唯一無二”の存在としての私である、その事実に気づけ」という仏からのうながし、あるいは「勅命・命令」であるとも言われます。

現代に生きる私どもは、科学技術のもたらした世界の中で「コスト(費用)とGNP(国民総生産高)」という数字による一元的評価基準にさらされて生きざるを得ません。
そのため、私という存在が「一」なるもの、つまり「唯一無二」という比較を超えた存在であることに気づけない、あるいは出会えない生活環境 ―個人の評価基準として、学歴や会社での地位など比較できるもの― に振り回され、左右されっぱなしという事態に押し込まれての生活を余儀なくされています。
(コスト…人の勤労に払う経費は人件費。人は代替可能品として扱われている。)

私たちはそうした思考にとらわれてしまっていることが、ほとんどなのではないでしょうか。
そういう時に「そこを動くな、そこで深く考えよ。」という言葉を通して、「私は先入観にとらわれて、身動きできなくなっているのかもしれない。」と、一度考えてみなさい、と呼びかけられていると思いますが、いかがでしょう。

「深く掘れ、深く考えろ。」の「深く」の文字に、それこそ先人からの暖かい「唯一無二性」の深い意味が込められているように思うのです。(続く)




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Posted by 守綱寺 at 16:51│Comments(0)清風
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