2019年03月04日

清風 2019年2月



先月号の最後に、釈尊は、この世に出てきた用事は何であったのかを「出世の本懐」と受け止められ、念仏の教えを聞いてきた先輩は「仏法を聴聞することである」と受け止めてこられたのです、と記しました。
さあ、どうでしょうか。冒頭で紹介した詩「足もと」にも記されているように、私どもは日常生活の中では、それこそ「なにもかも 当たり前にしている」のですね。
「進歩」という名称・レッテルを付けて。変わっていくのは、身につけている「コロモ」だけなのですね。
平均寿命という数字で、長生きが出来るようになっても、かつての敬老という言葉が内容がなくなっていき、少子・高齢化というコロモが付けられてきました。
子育ては手間のかかること、高齢者は身体機能が衰えて、要するに「間に合わない」というわけです。                      (2面に続く)

(1面より)
進歩とは、先進七カ国(G7)と言われるように、その内実はGNP(国民総生産)であり、豊かさ ―例えば物の生産高の高いことと数字で示されているごとく― で、先進とは経済に特化した生産高からの評価です。
ですから、万博を契機として海外からの人も当てにして儲けようと、カジノ依存症が心配されている賭博場を開設しようと大阪、愛知でも検討されている始末です。
ここで、この経済・豊かさということを考える場合の考え方を巡って、一思想家の指摘を紹介しましょう。
そして、その言葉の解説と言える、冒頭に掲げた詩の「足もとの幸せに気づけよ」という如来(ほとけ)の呼びかけが意味するところを、少し脇道をしながら、ゆっくり考えてみることにします。

「私は自分を幸福にしてくれると予想され、しかもそれに到達した瞬間、巧みに私をはぐらかすような目的を追っているのではなかろうか。
(略)すなわち現代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないというのが真実」ではないかと。
そして次のように結論する。
「このことを認めるためには、人が本当に何を欲しているかを知るのは多くの人の考えるほどに容易ではないこと、それは人間が誰でも解決しなければならないもっとも困難な問題の一つであることを理解することが必要である。」と。(下線は引用者による)
『自由からの逃走』P278(E・フロム著 東京創元社刊)

現代は、商品社会です。お金さえあれば何でも欲しいものはすぐ手に入るという、欲望が肥大化した社会を迎え、お金が異常なまでに評価されている社会と言えます。
そこでは、我々の自我が肥大化しているということですが、自分がどう評価されているかという、ある種、商品化され、評価の対象とされています。
わかりやすく言えば、どんな“コロモ”(学歴・能力など)を身に付けているかによって評価される、つまり間に合うか、間に合わないか、人も物もすべてが道具扱いされることになってしまっている時代となっているのです。

今こそ「いのちは尊い」という場合の、そのいのちには、人間以外のいのちは含まれていたのだろうか、この先人の伝えたかったメッセージとはどんな内容のことであったのか、我々が「当たり前」としてきた代償が、今問われ始めたのでしょう。
例えば、欲望の肥大化が地球温暖化という事実をもって突きつけられているように。
これが実は、現代人の根本的課題なのでしょう。
いのちを育んできた環境、地球を、単に資源としてのみ受け止め、栄華を誇って、後世にそのツケを追わせるのはいかがなものであろうかと。
まこと、足もとの幸せに気づけよと、仰せくださる。
(続く)

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)清風

2019年03月03日

お庫裡から 2019年2月



走るように1月が過ぎ、逃げる2月がやってきました。
出産の為に帰省していた三女は、三が日が過ぎると、「今しか帰るときがない」と、そそくさ大荷物で引き上げていきました。
9月からの長逗留だったので、「やれやれ」とホッとしたのも事実ですが、がらんとしてしまった部屋を見ると、「あぁ、いないのか」と、淋しく感じてしまいます。
我家は平常にもどり、7人で食卓を囲んでいるのに、妙に静かで、あのてんてこ舞いのような食卓は何だったのだろうと、今更乍らに、2歳児のパワーのすごさを感じます。
新しく生まれた赤ん坊に関心を奪われまい、自分だけに注目してもらいたい、その思いを「イヤー」「だめ―」「自分でー」という言葉で表現する事を知った2才児は、連日、3つの言葉を大声で連発、動きもパワフル。
それを大の大人が、大人の都合に合わそうと躍起になるのですから、外から見たらさぞ滑稽な事だったでしょう。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)お庫裡から

2019年03月02日

今月の掲示板 2019年2月



   始まる
  己の地獄発見
  そこから仏法が始まる
  この地獄 深くて底なし
  ここから
  真の人生が 始まる

   世間虚仮
  今年は選挙年
  「明るい選挙で
  住みよい日本」というけれど
  ここは 苦の娑婆
  不自由を常とし
  乏しきを分かちあう
  それよりほかに
  住みよくなる道が
  どこにある

   落葉
  握りしめているものを
  よくよく吟味せよと
  落葉 ハラハラ

   花ひらく
  人生に花ひらくとは
  この自分が
  押しいただけたことです

   未練
  他人の赤い花が
  またフッと
  羨ましくなり

   無明
  くらさをくらさとも感じられず
  光りがあてられた
  一瞬だけドキンとする
  この鈍感さを
  悲しいとも思わず

   仏さま
  なにもかも
  これでよかった
  行き詰まりも
  不平、不満も
  私の心の目を
  開かせてくださる
  仏さま

   逆風浄土
  むかい風のなかを
  自転車でゆく人が
  ひとこぎ ひとこぎ
  ていねいに
  頭をさげつづけてゆきます

   本願
  暗いより
  明るいほうがいい
  冷たいより
  暖かいほうがいい
  憎みあうより
  愛しあうほうが楽しい
  これは人間だけではない
  いのちそのものの願い
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今月の掲示板

2019年03月01日

本堂に座って 2019年2月



昨年9月中頃から3ヶ月半の間、里帰り出産のため一緒に過ごしてきた姪っ子ののの葉ちゃんが、正月明け早々に東京へ帰っていきました。
すっかり「台風一過」という感じですが、これだけ長期間一緒に過ごしていると、どことなく寂しい感じも漂います…。
2歳半のののちゃんの一つひとつの行動に悪意があるはずもないのですが、その一挙一動にやきもきしたりイライラしたり…。
それでも良くないこと・してはいけないことをした際には、それぞれ気づいたところで注意します。
そんな中で誰からともなく聞こえてきたのが「ごめんって言いなさい」の一言。
この言葉を聞いて、以前読んだ『反省させると犯罪者になります』という本のことを思い出しました。

これまでみてきたように、反省させると後々にまずいことになるのが理解していただけたかと思います。
問題行動を起こしたら、「すみません。ごめんなさい」と謝罪して、2度と過ちを犯さないことを誓う。
これが学校現場だけでなく、家庭でも社会でも普通に行われてきた方法なのです。
しかし、これでは問題を先送りするだけなのです。それももっと悪化させた形で。
反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。
言い換えれば、反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです。
問題を起こすに至るには、必ずその人なりの「理由」があります。
その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。
この場合の「内面の問題に気づく」ための方法は、「相手のことを考えること」ではありません。
親や周囲の者がどんなに嫌な思いをしたのかを考えさせることは、たしかに必要なことではありますが、結局はただ反省するだけの結果を招くだけです。
私たちは、問題行動を起こした者に対して、「相手や周囲の者の気持ちも考えろ」と言って叱責しがちですが、最初の段階では「なぜそんなことをしたのか、自分の内面を考えてみよう」と促すべきです。
問題行動を起こしたときこそ、自分のことを考えるチャンスを与えるべきです。
周囲の迷惑を考えさせて反省させる方法は、そのチャンスを奪います。
それだけではありません。
寂しさやストレスといった否定的感情が外に出ないと、その「しんどさ」はさらに抑圧されていき、最後に爆発、すなわち犯罪行為に至るのです。
(中略)
ここまで本書を読んでくださった方は、問題行動が起きたときに最も大切なのは、「反省させないこと」であることは分かっていただけたかと思います。
反省させるのではなく、「なぜこの子(あるいは自分)は問題行動を起こしたのだろうか」と周囲の大人がいっしょに考える視点を持つことが必要です。
叱るとしても、その後でいいでしょう。
否、原因が分かると、多くの場合、大人の方に問題があることに気づき、自ら恥じ入る気持ちになるかもしれません。
しかし、それはそれで親子関係や生徒と教師の関係だけでなく、あらゆる人間関係にとってとても良いことです。
普通、問題行動を起こした子どもは、叱られるものと思っています。
そこで大人が、「今回、問題を起こしたことは、君がいい方向に向かうためのチャンスとしたい」と伝え、「今回、なぜこのようなことが起きたのか、いっしょに考えよう」と問題行動を起こした背景を子どもといっしょに考える姿勢でいることを伝えます。
(中略)
問題行動を起こした者に対して内面を見つめさせるために、手厚いケアをしないといけません。
「反省」という形を求めるのではなく、「更生」という視点を持つのです。
更生とは、字が示すように、「更に生きる(=立ち直る)こと」を意味するけで、「誤りを正す」という「更正」ではありません。
(『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹 著 新潮新書 より引用しました。)

「ごめんって言いなさい」と言われたののちゃんは、初めのうちは「ごめんなさい」と返事をしていましたが、しばらくすると「ごめんちゃ~い」と言うことも増えてきて、この本のことを思い出したのです。
本の内容としてはもっと年齢を重ねてからの話が中心なので、ののちゃんにはまだ少し早かったかもしれませんが、年齢に関係なく、「ごめんなさい」と言わせる前に、何がいけなかったのかをゆっくりじっくり伝え、一緒に考えることが必要なのだと、あらためて確かめ直すことができました。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)本堂に座って