2019年02月28日

今日も快晴!? 2019年2月



長男が高校生になり、もうすぐ1年になります。
朝は6時半過ぎに家を出発し、帰りは遅いと8時近くになることもあり、平日の昼間はほとんど彼の姿を見掛けることがなくなりました。
土日も模試や補習で学校に行く日も多く、そうでなければ図書館に行くか、部屋にこもっている時間が多くなりました。
県外への進学を希望していることもあり、こうして徐々にこの子の姿を見る時間が減るのは、いざ子どもが巣立って行く時にあまり寂しくないよう、予行練習をしているんだろうなと思います。
長男はクラスや部活で頑張っている友人達から刺激を受け、目標を持って自身を律している様子も見て取れ、何より「学校が楽しい」と生き生き家を出て行く様子に、(もうこの子は半分以上大人なんだな。何も言うことはないし、彼の行く道を応援するだけだなぁ)と感じるようになりました。
そんな中、久しぶりに子ども部屋の掃除をしました。
妹の里帰りやら年末年始の色々で子ども部屋まで手が回らず、きっとひどい状態になってるだろうなぁ・・・と怖々足を踏み入れました。
床のあちこち山積みになったプリントをまとめて掃除機を掛け、棚の埃など拭き、ふとカバンがたくさん掛けてあるポールハンガーが目に付きました。
(そういえば、小学校の時に使っていたこの小さいバッグやリュックはもう使わないだろう。ちょっと整理しておこう・・・)と何気なく掛かっていたリュックを下ろしたところ、妙に重たいのです。
一体何が入れっぱなしになっているんだろう・・・?と開けてみると、なんと中からゲーム機が出てきたのです。
もう一つの小さなカバンからは、いくつかのゲームソフトも出てきました。
私は「子どもが背中を丸めて画面を見る姿が好きではない」と、子どもたちにゲーム機を買い与えませんでした。
子どもたちも、欲しそうにした時期もありましたが、レゴやガンプラ等々他のものでごまかしつつ何とかその時期を乗り越え、大きな波風もなく上の二人は中高生になりました。
よく素直にこちらの方針に従ってくれたなぁと思う反面、(男の子がゲームを欲しくないわけがない。ここで我慢した反動が、将来どこかでひずみとなって出てくるんじゃないだろうか?)という不安をどこかで感じることもありました。
それなので、長男の部屋からこっそり隠されたゲーム機を見つけたときは、私は正直なところ、ものすごくホッとしました。
(ああ、この子はまともだったんだ!)と思えたのです。
一応「見つけたよ」と分かる様にカバンを床の上に置いたままにしておきました。
学校から帰宅した長男は、見つかったことにちょっと安堵したように見えました。
部屋に秘密を隠し持ったまま居ることに、どこか後ろめたさを感じていたようです
「ああ、去年反抗期の時にリサイクルのお店で買ったけど、高校に入ってから一回も電源入れてない」
「うん。そうだろうと思った」
「売ろうとしても、もうあんまりこのソフト価値がないんだよね。」
「・・・お母さん、安心したわ。あんたまともだったんだね~」
「まぁね」。
にやっと笑った長男の顔を見て、また私は一つ子離れのステップを上がったんだな~という気がしました。
どうしても欲しかったのか、私への反抗心か、内緒でこっそり手に入れたN社のゲーム機。
結果、「自分には必要無い」と判断し、電源も入らない状態でほかりっぱなしになっていました。
「自分の頭でものごとを考えることの出来る人間になって欲しい」という子育ての目標は、もう達成しつつあるのかもしれません。
いよいよ母親の出番は、朝の弁当づくりと晩ご飯のみになりそうです。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?

2019年02月26日

清風 2019年1月



「私の出世本懐」について
先月号で、「長生きはめでたい事なのか」というテーマで投書された男性(83歳)の意見を紹介しました。
人類は長生き出来ることを願って生きてきたと言っても過言ではないでしょう。
そして我が国は、その長生きを世界でもいち早く達成したと思われる、その時に上記の投書があったのです。
その投書の内容は、「日本では安楽死が出来ないので、出来るように法の整備をして欲しい」というものでした。
釈尊は、人生に於ける苦として「四苦(生老病死)」を挙げておられます。
そしてこの四苦は、四つの諦(「諦」は真理を表現する言葉です)であると言われます。
苦が真理である ― 生まれることも苦諦であり、真理を表現している事柄なのだと。
では何故、苦が真理を表現している事柄なのでしょうか。
仏教では「人身受け難し」というのが、その教えの基本です。
「生まれた」と過去形で表すように、「生まれる」とは「身体が先に この世へ 出てきてしまったのである その用事は何であったのか いつの日か思い当たるときの ある人は 幸福である」と詩人(杉山平一)が記していますが、誰にとってもまったく受動的な出来事に違いないのでしょう。
その出来事を、「人身受け難し」と、仏教では教えています。
それは仏法が「目覚めの教え」と言われるように ― 佛陀・ブッダはインドの言葉で「目覚めた人」の意ですから、「成仏」は目覚めたものに成るという意味です― 人間は生まれた限り、上に記した詩人の「その用事は何であったのか」という問いを誰もが抱えていたのです。
その問いが83歳にして、やっと意識の上にあがってきた、ということです。

人間が、動物と違って「苦悩する」というのは、実は人間には「その用事は何であったのか」を問わなければならないのに、その男性は気づかずに今まできてしまった…ということであったのでしょう。釈尊は、この世に出た用事は何であったのかを「出世の本懐」と受け止められ、念仏の教えを聞いてきた先輩は仏法を聴聞することであると受け止めてきてくださっていたのです。
さぁ、何を聴聞するのでしょう? 勿論「その用事は何であったのか」を、でしょう。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)清風

2019年02月25日

お庫裡から 2019年1月



平成30年が終わりました。
今の庫裡は、昭和64年(平成元年)のお正月に完成しました。
入寺から10年目のことだったので、今年は丁度、入寺満40年ということになります。
入寺当時は、地元の人に「あんたが今度新しくお寺に入らした人かん。
あんなおそがい所(恐ろしい所)に、よう居るな」と言われたりもしました。当時の姿など、想像もつかぬ事でしょう。
寺に居る私共も驚いています。
これも、この40年、どんなに沢山の方々のお力を頂いてきたのか、その賜物だと思います。
ありがとうございます。私は、本当に張り合い良く嬉しい年月を送らせて頂いてきました。
老境に入り、気持ちはまだまだと思っていても、体力的に昔のように動けません。
幸い、若院夫婦も色々と活動を広げております。
お寺は何をする所か。自分を学び、又、生きる事を学ぶ所です。
衣が足り、食が足り、住が足りても満足できないのが、人間という生き物なのです。
精神という言葉で表現される、その部分が、他の動物にない、人間の人間と言われる所以なのです。
その精神を、生きる事を、共に学びに寺に足をお運び下さい。
本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

歩みゆく 道賜りて 初御空  尚子
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)お庫裡から

2019年02月24日

今月の掲示板 2019年1月



   「生きる」とは何か。
  学ばなくていいのか。

  人間を区別することを
  可能な限り無くしたい 井出英作

  いつも人の事ばかりで
  自分のことだとは思いもよらないけれど
  目の前で起こっている事は
  どれもこれも
  「すべて」本当は自分のことなのだ。

  自己とは何ぞや。
  自分の一点一画を変える事なく
  満足を受る
  その根拠は、
  自己を知るという事に尽きる。
 
  比べられる世界は浄土ではない。
  比べられない世界がある、
  それが浄土だ。

  心の物差しが正しくなければ
  人間は迷う。

  善悪を成り立たせる
  善があるのじゃないか。
  不幸をも幸せにするような
  幸せがある。

  自分を立てないと
  いっさいが立つ。

  仏さまは衆生の一切の無明を破し
  衆生の一切の志願を満てたまう。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今月の掲示板

2019年02月23日

本堂に座って 2019年1月



そろばん・習字・ピアノと習いごと三昧で過ごしてきた在ちゃんでしたが、この冬、1級合格を機にそろばんを卒業することになりました。
習いごとの中でもそろばんは週3日通っていたので、そろばんを卒業できることは在ちゃんにとって(送迎する僕らにとっても)大きな肩の荷が下りた感があります。
時間に余裕ができる在ちゃんは、「これでやっと友達といっぱい遊べる!」と期待に胸を膨らませているのですが、そんな在ちゃんに対して、親の(勝手な)願望が沸々と沸き起こってしまいます。
開くん・誓くんは読書好きで、暇があれば(暇じゃなくても?)本を開いている子たちなのですが、何かと忙しかった在ちゃんは、本好きではあるもののじっくり読書にふけることがなかったように思えてしまうのです。
「せっかく時間ができるんだから、在ちゃんの読書時間を増やそう!」という親の勝手な願望を、いかに自然に(!?)在ちゃんに向けていこうか…と考え出した矢先、ネット上で「昔、娘と一緒に読んだ懐かしい本」と紹介されているのを見つけて、「これだ!!」と思う書籍に出会いました。
そのタイトルは『アリーテ姫の冒険』。内容よりも何よりもタイトルに打たれました。
在ちゃんに勧めるにはもってこいの本です(短絡的過ぎますが…)。
さっそく図書館で本を借りてきたのですが、この本、とても面白くて読みやすい内容というだけでなく、実はとても深い思い・願いの込められたものだということがわかってきました。
本の内容について適確にまとめられているコラムを引用させていただき、お話を紹介します。

お話の魅力はヒロインのアリーテ姫が読書家で賢く、前向きで得意分野を生かして難関を次々突破していくところ。
姫を殺そうとたくらむ魔法使いとその家来の意地悪さが巧みに描かれているため、姫が彼らをぎゃふんと言わせるたびに、子どもはもちろん、読んでいる私もすっきりした気分になります。
お姫様に王子様、良い魔法使いに悪い魔法使い、ヒキガエル、蛇、ネズミ、馬、そして不思議な宝石や水など、おとぎ話の要素をふんだんに盛り込みつつ、一般的なお姫様物語とは逆の世界観を提示していることに、大人はすぐに気づくでしょう。
ヒロインのアリーテ姫が闘う相手は、意地悪な魔法使いや娘に無関心な王に象徴される「女性差別社会」です。
読書好きでお城にあった本を片端から読破してしまい、賢くなって自分の意見を堂々と述べるアリーテ姫に、家庭教師は怒ります。
なぜなら家庭教師は、お姫さまは自分の意見を言うべきではない、と考えているからです。
王様は財産を増やすことに執心し、アリーテ姫がお金持ちの王子と結婚することにしか興味がありません。
挙句の果てに宝石と引き換えに娘を悪い魔法使いと結婚させてしまいました。
面白いのはアリーテ姫が、父親と結婚相手から酷い目に遭わされても、泣くことも落ち込むこともせず、前向きに物事にあたり、日々を楽しみつつ、欲しいものを手に入れていく描写です。
彼女は賢いがゆえに「結婚できない」と人格を否定する親や、劣悪な環境に彼女を閉じ込め、難題を与えて殺す口実を探す魔法使いなど、気にもしません。
現実の世界では、このような目に遭えば自己肯定感が下がったり、何もやる気が起きなかったり、もしくは自分の境遇を嘆いて暮らすことが多いはずです。そこをあえて反転させ、あくまで前向きに生きて最後は自らの手で幸せを勝ち取るお姫さまを描いたところに、この物語の価値があります。
そうです。この物語はひどい現実を目の当たりにした時、あきらめ、希望を失いかける私たちに前に進む勇気をくれるのです。
(「賢いお姫様の物語『アリーテ姫の冒険』。児童文学のベストセラーを日本に絶望しそうな大人が、読むべき理由」治部れんげさんのコラムより引用しました。)

悪い魔法使いがアリーテ姫に3つの難問を持ちかけると知り、姫を助ける良い魔法使いのおばあさんは“3つの願いを叶えられる魔法の指輪”を姫に渡します。
ところが姫は、この指輪を難問を解決するためには使いませんでした。
姫にとっていちばんつらくて危険なことは、なにもすることがない“退屈”で、その解決のため、自分の生活を楽しく素敵にするために指輪を使ったのでした。
この本は30年ほど前に女性差別社会の視点から書かれたものですが、物語を読み進めていくにつれて、差別の根本は女性問題に限らず共通のものがあるんじゃないか…と感じました。   
(在ちゃんはこの本をとても気に入ってくれました。)
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)本堂に座って

2019年02月22日

今日も快晴!? 2019年1月



個人的な今年一番の出来事は、10年来の夢だった自宅リフォームが叶ったことです。
真新しい新築の友人宅に遊びに行くたびに羨ましく思い、
(いいな、いいな。でも、うちはまだ住めるし、リフォームが現実的だけど、長男にお嫁さんが来る時だろうなぁ・・・。早くて15年後かな・・・)と諦めていました。
いつが夢が叶ったときのためにと、友人宅訪問を趣味にして、2~30軒くらいのおうちにお邪魔しては(自分なら、ああしたい。こうしたい。)と妄想を膨らませていました。築30年を迎えた我が家は、冬はとにかく寒く、昨年12月に娘が発熱したのを皮切りに、受験生だった長男が1月にインフルエンザにかかり、その後父もインフルエンザを発症し、家族が相次いで体調を崩してゆきました。タイル貼りのお風呂場もとても寒くて、何度追い炊きをしてもすぐに冷めてしまいます。一通り皆が体調を崩した後、「これは、家が寒すぎるのではないだろうか?」というところで家族の意見が一致し、とんとん拍子にリフォームの話が進んだのです。
夢が叶った私は有頂天になり、憧れだったスッキリ片付いたモデルハウスのような家を目指して張り切りました。
何度も事務所まで打ち合わせに通い、名古屋のショールームまでキッチンやカーテンや色々な物を見に行き、インテリアの本を借りこんでは研究に研究を重ねました。
「今まで、お寺の事務スペースと居住空間がごちゃごちゃになっていたから、まずきちんとお寺の事務部屋を作ろう。
事務作業系は全部そちらに集めて、新聞やリサイクルのゴミ、郵便物等、きちんと置き場所を決めて散らかさないように。
玄関に靴を脱ぎ散らからないよう収納を考えて、子どもの物が出しっ放しにならないよう、きちんと子ども部屋を作って置き場所を作ろう。
とにかく、物が少なくて、すっきり片付いていて、明るく暖かい家に!」等々、不満だった所を全て列挙し、それらを解消するように綿密に収納やインテリアの計画を練りました。
お寺の行事が入らない夏場の二ヶ月を使って、いよいよリフォームが終わりました。
全て思い描いていたとおりの理想の空間が完成しました。
ところが、私にとって居心地の良い空間(=すっきり片付いて物が出ていない状態)と、家族にとって居心地の良い空間(=手に届くところに必要な物が全部出ている状態)がかみ合っていなかったのです。
「目立つところに生活感の出る物、インテリアの邪魔をする物は置きたくない」と思うのに、「なぜ今まで出ていた物を同じように出しておいてはいけないのか」と、なかなか理解してもらえません。
「家族みんなが明るく暖かく過ごせる家」を目指していたはずが、「理想の家を保つためには、理解のない家族は邪魔!」くらいに思えて来たのです。
本末転倒も良いところだなぁと思いつつ、こちらも10年来の夢だったので、そこはどうしても譲れません。
そして、完成から三ヶ月後、完成記念の撮影会が行われることになりました。
家は汚れ散らかる一方で、憧れのモデルハウスのようにはなりません。
どうしてうちは片付かないんだ・・・と焦る気持ちで迎えた撮影当日。
東京から来たというカメラマンは、キッチンに入るなり開口一番「あの~、炊飯器とポットのコンセントを抜いてどけて良いですか?」。
ええええ!?・・・そうです。カタログのすっきり片付いたおうちは、家族を邪魔にせずとも、撮影前に物を全てどかして撮影されていたのでした。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?