2021年09月07日

清風 2021年9月



人皆有黨 亦少達者 <第一条>
(人皆黨(たむら)有り 亦達(さと)る者(ひと)少なし)
共是凡夫耳 <第十条>
(共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ)
                  十七条憲法より


十七条憲法制定にあたって、聖徳太子は何故「人みな黨あり(人は誰でも党派心があり、争うものである。そういう私心を持っている。)」という内容を第一条に持ってこられたのでしょうか。
それには、太子自身もその渦中で経験された、用明天皇亡き後の皇位継承をめぐる2つの血なまぐさい権力闘争があったからだと言われております。
蘇我馬子と物部守屋との争いで蘇我氏は守屋の擁立した穴穂部皇子を殺害し、太子も物部守屋を追い詰めて殺害したのでした。
そしてさらには崇峻天皇を弑逆するという事件が起こるのですが、直接には蘇我馬子が東漢直駒を使わし殺害させたクーデターでした。
「和を以て貴しと為す」という言葉を第一条冒頭に挙げられているのは、権力を巡ってあらわになった「黨(私心・党派心)」こそが、太子をして人生の原体験、2つの血なまぐさい事件に加担した加害者側にあったという意識、それに対する悔悟の気持ちというものが、人生の出発点になったからだと言えると思うのです。

話は少し飛ぶようですが、こうした十七条憲法の成立した背景を考えますと、日本国憲法の成立した背景を改めて考えさせられます。
憲法の前文並びに第9条(戦争放棄の規定)、そして第99条(憲法尊重擁護の義務)という条項が置かれていることに、一貫した願いを感じさせられるのではないでしょうか。
人類の歩みが、何を願っての事であったのかという点についてです。

今、その点から、日本の憲法が通称として「平和憲法」と一貫して呼ばれてきているという事の深い意味について、私どもの先人が憲法前文に表明している願いから改めて学ぶべきではないかと思うのです。

以下に、憲法前文を紹介します。
長くなりますので端折って引用します、ご了承ください。
(尚、日本国憲法については『新装版 日本国憲法』(講談社学術文庫 No.2201 税込440円)に全文が掲載されています。)

<憲法前文>
日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
(略)われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

この日本国憲法の精神は、1945(昭和20)年6月24日に発効した国際連合憲章の精神を受け継ぐもので、そういう意味からこの憲法は「人類の視点」に立つものです。
ことに「第9条」は、「ヒロシマ・ナガサキ」「アウシュビッツ」以後に生きている我々に、19世紀的な主権的国民国家という国家観の呪縛を解き、人類に通ずる普遍の法、つまり“いのちの真実”に立って世界の平和を目指す日本国を創るという生き方を堅持すべきであることを示しています。
そして、そこにこそ『日本国憲法』の初心があるのです。

「自衛隊派遣は有害無益です」 中村 哲氏は言い遺したり
薬では 飢えや渇きは治せぬと 水路作った 中村氏逝く

中村 哲医師は、アフガンで見事にこの人の和を作り出していかれたと言えます。
平和憲法を十分使い切れていない、というか持て余してきた日本の政府そして国民も、もうそろそろ沖縄・福島の人に被せてきた差別を無くすにはどういう未来を描くべきなのか、考えなければなりません。
第9条を持ちながら、冷戦終結後(1989年 ベルリンの壁崩壊)もまともに日本独自の外交方針を考えようとしなかった政府、またそれを見過ごしてきた国民も、平和憲法を人類の視点、国連憲章の精神に立って考えてみる時だと思います。(続く)

  

Posted by 守綱寺 at 11:11Comments(0)清風

2021年09月07日

お庫裡から 2020年9月



あのものすごい蝉時雨もいつしか止んで、法師蝉が鳴き、いよいよ夏休みが終わります。
8月は、雨ばかり降っていたような気がします。
大きな被害を受けられた地方の皆様にお見舞申し上げます。
9月の残暑が酷暑にならねばいいが、と案じます。
家の中から一歩外に出れば水引草が足元に触れ、秋海棠が可愛いピンクの蕾をふくらませ、梅擬が葉陰から赤い小さな実をのぞかせている。
季節は確実に移り変わっているのです。
時の流れのあまりの早さについて行けないのは、私の頭の中ばかり、それでいて過ぎた事はどんどん忘れて、それなのに忘れていいような子供の時の事などが、忘れられずにひょいひょいと顔を出す。
面白いものだなぁ、と自分の事が他人事のように笑えます。
自分の事が笑えるのも、今、こうして生かされているからこそ。
若い時のように走り回れず、時々は痛い痛いと言い、十分でなくてもなんとか用を足していく事が出来る。
なんと有り難い事か。本当に嬉しい事です。
そして夫婦が2人、元気で過ごせている事も有り難い事。その上、娘夫婦と1つ屋根の下で暮らし、7人で食卓を囲む。
これも本当に有り難い事。
孫3人がお内仏のお夕事につき合ってくれる事も(なかなか3人揃いませんが)本当に嬉しく有り難い事だと思っています。
そんな有り難い事のどん真ん中におりながら、嬉しく思っているにもかかわらず、時々腹が立つ私。
御粗末な者です。南無阿弥陀仏。
  

Posted by 守綱寺 at 11:10Comments(0)お庫裡から

2021年09月07日

今月の掲示板 2021年9月



いれもの
やどかりが
自分の殻を
自分だと言ったら
おかしいだろう
私は 私の殻を
自分だと思っている

回心
自分が可愛い
ただそれだけのことで
生きてきた
それが深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけてきた

自力無効
せぎの下で
浮いたり沈んだり
キリキリ舞いしている
茄子の実よ
お前も 自分の力で
そこを離れられないのか

聞く身
願いを聞こう
願われて 願われて 願われて 生きてきた
願われて 育てられてきた
その願いを 聞く身になろう

一度ほんとうだと感じたことは
消えない
きっと自分のうちのどこかで
生きている
見えないところで
自分を生かしている
感じることが根本だ(宮崎丈二)

なにかが
私が私に出遇ったのだ
それでなにかが
私の意思や
私の苦悩を知りつくして
私のために
働いていることが
この身に感じられる

問い
なんのために生きているのか
愚かな愚かな問い
私の最初の問い
そして 今も
一番底にある問い
わかったつもりの私が
愚かな愚かな私に
突き当たる問い

帰る所
帰るところがあるので
待っていて下さるので
安心して
遊んでいられる
  

Posted by 守綱寺 at 11:09Comments(0)今月の掲示板

2021年09月07日

本堂に座って 2021年9月



毎月のお参りなどで、東本願寺から発行されている『真宗の生活』という小冊子を読んでいます。
過去に出版された書籍などから2~3ページ分ずつを抜粋して作られていて、お参りの中で読むのにちょうどいい文章になっています。
その中に、今まで何度も紹介している真城義麿先生の『仏教なるほど相談室』の文章が載っていて、あらためて読ませてもらっています。
今回は「いただきます」についてのお話を紹介します。

Q> 
ご飯を食べるときに「いただきます」と言って手を合わせるけれど、あれは宗教と関係あるのですか?

A> 
そうですね。手を合わせるのでそう思われたのでしょうか。
人間が生きていくためには、食べ物を食べなければなりません。
私たちが食べている食べ物は、そのほとんどが、少し前まで生きていた動植物ですね。
さらに、小さな魚の「おどり食い」のように、生きたまま口に入れて食べてしまうことさえあります。
サラダなどの生野菜も、考えてみると生きているのです。細胞が生きているから瑞々しい食感があるのでしょう。
さて、「いただきます」は、誰が何をいただくのでしょうか。
私のいのちの存続のために、他の「いのち」をいただくのですね。
食事は生命の受け渡しの営みです。
目の前の料理の食材となった「いのち」に向かって「申し訳ありませんが、私が生きていくために、あなたのいのちを頂戴し、今後はあなたのいのちとともに生きていきます」ということでしょう。
摂取した「いのち」は、私のいのちと不可分に一体化します。
私たちはこれまでいただいてきたたくさんの「いのち」とともに生きているのです。
ですから、いただいた「いのち」への責任があります。
そういうことからいえば、「いただきます」の習慣は、特定の宗教・宗派の作法ということではありませんが、いのちに対する尊重や畏敬という意味で宗教的行為といえるでしょう。
本来はわたしのいのちの維持のために生まれてきたわけでもない動植物を、生きることを中断させて、いただいたわけです。
尊いいのちを中断させて「ごめんなさい」という謝罪でもあり、食材となってくださって「ありがとう」という感謝の表明でもあります。
そういうところに立ってみると、いのちである食材を粗末に扱ったり、無駄に捨てたりすることになったら、「いのち」に失礼ですね。
不必要にたくさんの食材を用意して結局は無駄にしたり、食べ散らかしたりすることは、慎まねばなりません。
地球上には、栄養失調や飢餓で亡くなる多くの方がいます。
その無駄に捨てられた「いのち」は、有効に届けば誰かのいのちを支えることになったはずなのです。
食前には、いただく「いのち」に「いただきます」と言い、食後には、その「いのち」をいただいたことへの心からの痛みと感謝を表すとともに、その食事を用意してくださった方々に対して「ご馳走さま」(馬で走り足で走って用意してくださり、ありがとうございます)と御礼を言うのです。
食事をとおして、「いのち」について考えたり話し合ったりしていただきたいものです。
(『仏教なるほど相談室』真城義麿 著 東本願寺出版発行より引用しました)

初めのうちは内容通り“食事としていのちをいただく”と読んでいたのですが、くり返し読んでいくうちに、「いのちをいただくのは動植物からだけではなく、人同士にも言えるんじゃないか」と思いました。
 ある人の言葉・行動・一緒に過ごした時間など様々なものをいただいて、それらが私と一体化して、私とともに生き続けていく…。
 ある本で「食材の細胞が体内の細胞と置き換わって体内に残ることが実験で分かった」と読みました。
 身近な方のいのちも、同様に私の一部になってくださっていると思うと、“ともに生きている”と感じられるのではないでしょうか。

  

Posted by 守綱寺 at 11:09Comments(0)本堂に座って

2021年09月07日

今日も快晴!? 2021年9月



今年の夏休みに、プラゴミについて改めて考えることがありました。
図書館で娘の宿題の読書感想文に使う本を探していた時に、『プラスティック・スープの海~汚染される「水の惑星」』という本をたまたま手にとったことがきっかけです。
プラスティックは石油から作られる合成素材で、とても便利で手軽であるため広く利用されています。
例えばプラスティック包装は、野菜や果物を乾燥から守り、鮮度を保つことが出来るため、廃棄処分を減らすことにも繋がります。
しかし、プラスティックは微生物によって分解されて自然にかえることは無く、いつまでも自然の中で残り続けるために、様々な問題が生じています。
現在、地球上にプラスティックによる汚染が見つからない場所はないそうです。
そうした汚染の問題は、「プラスティック・スープ」と名付けられました。
プラスティックは時間と共に劣化して細かい破片になっていきます。
破片化した物はマイクロプラスティックと呼ばれ、5mm以下の大きさで肉眼に見えない物も多くありますが、それが食物連鎖に入り込んでしまっていることが分かってきました。
餌と間違って食べてしまう動物がとても多いのです。
これまでも、プラゴミについてはそれなりに関心もあり、自分なりに気を付けて生活していたつもりでしたが、改めて世界中の国々で起こっていること、海の状況、動物たちに起きていることなど突きつけられると、(これは大変なことになっているなぁ)という感じがします。
本で紹介されていた写真には、途上国のビーチに打ち上げられている大量のプラゴミ、捨てられた漁網に絡まって身動き取れなくなったアザラシ、捨てられたペットボトルのキャップやライターなどを餌と間違って食べてしまった海鳥の死骸、海を漂うビ二ール袋を好物のクラゲと間違って食べてしまうウミガメ等々…。
「自分はゴミのポイ捨てはしたことが無い」と言ったところで、到底許しては貰えない。
こんなにも多くの生き物に負担を掛けてしまっているプラゴミを出し続ける側の人間の一人として、責任があるなぁと感じます。
例えば、気づかずに出していたプラゴミに、マイクロファイバー(ごく微細な化学繊維)がありました。
フリースなど合成繊維の服を洗濯すると、マイクロファイバーが剥がれて排水と一緒に下水道に流されます。
これらは小さすぎて下水処理施設で取り除くことが出来ず、一回の洗濯で何百万本の膨大な量のマイクロファイバーが放出され、多くは河川、地下水などに流れ海まで到達するそうです。
我が家も気づかずに、毎日の洗濯でそうした自然に分解されないゴミを出し続けていたようです。
もう一つあまり意識していなかった問題として、プラスティックに添加される毒の問題もありました。
プラスティックには、安定剤や柔軟剤、難燃剤、染料など、何千種類にも及ぶ化学物質が添加されています。
その化学物質は毎日プラスティックから自然の中に放出されていて、人間の健康に害を及ぼす証拠が沢山見つかっているようです。
しかし、そうはいっても確実にプラスティックからの恩恵も受けています。
今更身の回りからプラスティックを排除することは恐らく出来ないと思います。
けれど、漁網に絡まったアザラシの悲しそうな目や、死んだ海鳥や魚の胃の中から出てきたおびただしいプラスティックの破片を見た衝撃を忘れないようにしたいと思います。
「安い」とか「便利」だけではなく、(動物たちにこれ以上負担を掛けないために、どれを選択するべきか?)という視点を、これから何か物を選ぶときに基準の1つにしてゆけたら良いなと思いました。

  

Posted by 守綱寺 at 11:07Comments(0)今日も快晴!?