2021年06月08日
本堂に座って 2021年6月
4月から5月にかけて、イスラエルとパレスチナの衝突が起こりました。
この地域の対立は、宗教的な背景や歴史的な経緯が複雑に絡み合い、また対立を政治的に利用する向きもあって、解決の方法を探すにも一筋縄では行かないと思います。
この問題について学び・考えることは大切なことですが、ここでは宗教と争いの関係について真城義麿先生が質問に答えてくださっている文章を紹介します。
Q>
いま世界で起きている戦争は、ほとんどが宗教間の戦争だと聞いたことがあります。
宗教は良いことを説いているというけれど、殺し合いをしたり、自爆テロまで起こしたり、少しも良くない気がします…。
いま世界で起きている戦争は、ほとんどが宗教間の戦争だと聞いたことがあります。
宗教は良いことを説いているというけれど、殺し合いをしたり、自爆テロまで起こしたり、少しも良くない気がします…。
A>
内戦は別として、国家間の戦争がどのようにして起こるのか、少し考えてみましょう。
たいていは、支配する領土を拡大したいとか、奪われた領土を奪い返すため、あるいは資源が欲しいなどの理由で戦争が起こります。
他の宗教を滅ぼすために戦争をするということではありません。
ただ、戦争や侵略の理由(言い訳)として宗教が使われることは大いにあります。
世界のほとんどの国では、宗教は生活や政治と密接に関わっており、別に考えることはできないからです。
内戦は別として、国家間の戦争がどのようにして起こるのか、少し考えてみましょう。
たいていは、支配する領土を拡大したいとか、奪われた領土を奪い返すため、あるいは資源が欲しいなどの理由で戦争が起こります。
他の宗教を滅ぼすために戦争をするということではありません。
ただ、戦争や侵略の理由(言い訳)として宗教が使われることは大いにあります。
世界のほとんどの国では、宗教は生活や政治と密接に関わっており、別に考えることはできないからです。
実際の戦争は敵味方ともに多くの兵士の死を伴います。また民間人を巻き込むことになります。
戦争に行くことになった兵士は、戦場で直接関係のない、いわば知らない他人を殺すという大きな罪を犯すことになります。
それによって殺した側の兵士の心は深く傷つきます。
命令されたとはいえ、殺したときのおぞましい実感を一生抱えて生きていくことになるのです。
その人生は、最後にどう裁かれるのか、不安であり恐怖でしょう。
戦争に行くことになった兵士は、戦場で直接関係のない、いわば知らない他人を殺すという大きな罪を犯すことになります。
それによって殺した側の兵士の心は深く傷つきます。
命令されたとはいえ、殺したときのおぞましい実感を一生抱えて生きていくことになるのです。
その人生は、最後にどう裁かれるのか、不安であり恐怖でしょう。
また戦争では、知らない誰かに殺されるという最もつらく受け容れがたいことが起こるのです。
死後の安心を保証する宗教なしには、国民に戦争を強いることは困難です。
つまり、宗教が原因というよりも、戦争をしようとするときに、宗教的な保証をすることで、殺し殺されることを兵士に強いていくのです。
ですから、戦争には宗教が必ず持ち出されるのでしょう。
死後の安心を保証する宗教なしには、国民に戦争を強いることは困難です。
つまり、宗教が原因というよりも、戦争をしようとするときに、宗教的な保証をすることで、殺し殺されることを兵士に強いていくのです。
ですから、戦争には宗教が必ず持ち出されるのでしょう。
宗教の本来のはたらきは、そういう自他を傷つけずにおかない戦争の愚かさを自覚させるものです。
自己や自国中心に立って、他を傷つけ否定する、そういう人間の営みや志向とその罪悪性に気づき、恥じ、見つめ直すはたらきです。
自己や自国中心に立って、他を傷つけ否定する、そういう人間の営みや志向とその罪悪性に気づき、恥じ、見つめ直すはたらきです。
互いに存在を認め合いながら、「ともに」生きていくために、宗教があるのです。
(『仏教なるほど相談室』真城義麿 著 東本願寺出版発行より引用しました)
今回の衝突は、イスラム教の断食月(ラマダン)に合わせてイスラエルがパレスチナ人を退去させたことで始まった、パレスチナ人の少年がユダヤ教徒の顔をたたく動画が拡がったことが拍車をかけた、といった話が聞こえてきます。
多くの方が死傷する出来事でも、きっかけはこうしたことの積み重ね、なのでしょう。
新聞記事などを見ていると「攻撃(進んで敵を攻めうつこと)」とは書かず「衝突」や「報復(不当な行為に対し同様の行為で報いること)」と表現していて、どちらかが一方的に仕掛けた…という受け止めではない様です。
“戦争”ではないとしても、上記のような心の問題は生じていると思います。
遠くで起きているこうした出来事は、どうしても他人事になってしまいますが、国と国という大きな問題はもちろんのこと、近所や家庭内などの身近なところでも、“互いに存在を認め合いながら、「ともに」生きていく”ことを考え、見つめ直す大事なきっかけにしていきたいものです。
Posted by 守綱寺 at 11:14│Comments(0)
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