2019年01月04日
本堂に座って 2018年10月
このところ身の周りのことが慌ただしくて、なかなか本を読めずにいました。
そんな中、あらためて中川皓三郎先生の本を読み返してみたところ、“豊かさ”についてお話してくださっている一節が目に留まりました。
本当の豊かさとは何なのか、わかりやすく教えてくださっています。
現代は、信頼関係が利害関係にやぶられている時代だと思います。
現代という時代を生きる者にとっては、経済的に一応豊かな人も、また、経済的には貧しく苦労しておられる人もふくめて、お金が象徴しているものは、非常に大きいと思います。
これはある先生に聞いたことなのですが、現代の新興宗教が説く人間の苦しみのすがたというのは、「貧・病・争」で表せるのだそうです。貧しさと病と争いです。
経済的に豊かでないこと、そして、健康が思わしくないこと、そして、家庭の中がうまくいかない、人間関係がうまくいかないという、こういう三つの言葉で、現代を生きる人の課題がおさえられています。
つまり私たちは、お金がないことが苦しみの原因なのだと考えているのです。
生きることそのことを喜べないのは、お金がないからだと。(中略)
また、イギリスの経済学者であるシュマッハーという人は、『人間復興の経済』という本の中で、私たちは、ただがむしゃらに豊かになろうとして生きてきたのだが、では、その“豊かさ”とは何だと、どう定義できるのかと問うておられます。
普通私たちは、豊かさとは、持ち物の量、どれだけたくさんの物を持っているかということで見ていると思います。
だから、持ち物が増えるということは、自分の満足度が増えるということであり、持ち物が少ないということで、自分の生きることそのことが喜べないということもあるのです。しかし、シュマッハーは、こういう言葉で問いかけておられます。
まず吟味すべき問題は明らかに、「行き渡るべき十分な富はあるか」ということである。
ここで直ちに逢着する深刻な難問は「十分な富」とはいったいなにか、いったい誰がわれわれにそれを教えてくれるのか、という点である。
「経済成長」をすべての価値の至高のものとして追求し、したがって「十分」という概念を持たないエコノミストが、これを教えてくれないことは確かである。
あまりにも少ない富しか持たない貧しい社会は存在するが、「止まれ、もう十分だ」という富める社会はどこにあるのだろうか。
どこにもありはしない。
(中略)豊かさとは、量の問題ではないのだということです。
つまり、自分が自分であることに、これでよしと言えるかどうかという問題だということです。
シュマッハーの言葉では、「止まれ、もう十分だ」と、こう言えるところに、実は、本当の豊かさがあるのだというわけです。(中略)
先ほどのシュマッハーという人の言葉に、「止まれ、もう十分だ」というものがありましたが、どんな自分であっても、「これでよし」と言えた人は、別の自分になる必要がないのだから、お金がなくてもいいのです。
なくてもいいということの意味は、少しもいらないという意味ではなく、これでいいと言える人は、別な自分に変わる必要がまったくないのだから、お金といっても大きな力を持たないということです。
こんな自分を嫌だと言っている人だけが、別な自分にならなければならないわけだし、そして、別な自分になるためには、お金というものが非常に大きな力を持ってくるのです。(中略)
そういうことから言えば、私たちを苦しめる本当の原因は、お金がないということではなく、「これでよし」と言うことのできない、自分と自分の間に、そして、自分と他人の間に裂けめをつくる、私たちの心であるということなのです。
(『ただ念仏せよ 絶望を超える道』 中川皓三郎 著 東本願寺出版発行より引用しました。)
先生はお話の中で、「(お金によって)人をだますことはできるけれども、自分自身を嫌だと言っている、その自分自身をだますことはできない」とも語られています。
「止まれ、もう十分だ」と言える“本当の豊かさ”は、自分を見つめ直し「これでよし」と真っ直ぐに言える自分を見い出したところに見えてくるのでしょう。
Posted by 守綱寺 at 15:45│Comments(0)
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