2019年01月04日
本堂に座って 2018年12月
先々月、先月と中川先生のお話から「私を知る」ことを教えていただきました。
今月は、その前に紹介した本多雅人先生のお話から、「私」についてもう少し聞いていきたいと思います。
普通の動物園では、パンダとか、コアラとか、人気のある動物を集めて、来園者数を伸ばそうとするそうですが、この(旭山動物園の)坂東園長の考えは違うのです。
園長の言葉が次のようにあります。
動物は、そのまま死を受け入れていく。死を認めるところで生がある。人間はあらがって環境さえも変え、不都合なものに蓋をする。
さらに価値観を変化させていくんですね。
(中略)だから動物は常にお前の価値観は何だと問いかけているように思いますし、その問いかけを感じていただくのが、動物園の大切な役割だと思います。
動物は病気になったら病気のままでじっとしているらしいのです。
人間みたいに嫌なことがあったら、誰かのせいにするということはないのです。
ありのままを生きているのです。
しかし私たちは、ありのままに生きられない。
『同朋新聞』には出ていませんが、坂東園長は次のように話されました。
ありのままの中に素晴らしさやすごさがあります。
ありのままの中に尊厳を感じてほしいということを、動物園は理念にしています。人間の価値観や生き方を基準にして動物を見せるのではなく、動物のありのままの生態を通して、それがいかに尊く素晴らしいものであるかを伝える場だと考えています。
パンダやコアラでなくても、どの動物も素晴らしいのです。
これは全く仏教と同じだと思います。
色々な縁によって、私たちのいのちは与えられているのです。
それで、生まれてきたときに、男であっても、女であっても、あるいは健常者であっても、障がいを持った人であっても、縁のなかで生まれてきたいのちだから、どのいのちもかけがえのないものなのです。
園長は続けて、こう言われました。
どのいのちも皆尊いのです。ヒトは自分たちにとって都合のいい愛し方や関わり方をす
る一方で不利益になる生き物は排除してきたのです。
ここで「排除」という言葉が使われています。
排除とは、動物に対して、他者に対して尊く思わないどころか、自分のことを尊いと思わないことをも意味していると思います。
『同朋新聞』の2018年1月号では、アザラシの写真を掲載しました。
なぜ、アザラシかといえば、大人が「なんだ、アザラシか」と言うそうです。
そうすると、アザラシというのは大した動物ではないというふうに子どもは認識するそうです。
坂東園長は、「行動展示」という方法で、ありのままのアザラシを見て、人間の勝手な判断基準、エゴに気づいてもらいたいという願いをもっておられます。
私は、アザラシたちのようにありのままに生きることができないことを痛感させられました。
都合よく生きられたら幸せになれるという妄念にがんじがらめになって生きているのではないでしょうか。
私たちは、生まれたときから競争社会のレールの上を歩かされ、学力だけがすべてのような教育しか受けていないのではないでしょうか。
「なぜ、こんな勉強をするのだろう」と思いながら、教科書を一方的に与えられて、学力があるかないかによって、そこで既に人間が序列化され、劣等感と優越感を植え付けられるのです。
そして憎しみややっかみを感じたり、あるいは相手を上から目線で見る心が起こったりするのです。
結局、この社会のなかで生きるためには、自分が他人から、どう思われているのかということばかり考えて生きていくしかないのです。
関係性が希薄化され、自分が分からなくなってくるだけでなく、共に生きるといった感覚が極端に乏しくなってしまっているのではないでしょうか。
一生懸命生きてきたつもりだけど、なんで生きているかが分からないというのが現代に生きる私たちの共通した課題ではないかと思うのです。
ありのままに泳いでいるアザラシなどの動物を見て、人間の本来性を回復していくということが、とても大事なことだと思うのです。
(『ともしび』2018年6月号 真宗大谷派教学研究所 編集
本多雅人先生の講演抄録「縁を生きぬく意欲」より引用しました。)
私の本当の価値・尊さとは、できること・競争に勝つことの中にあるのではなく、「私は私でよかった」と言えるところに見いだされるものだと思います。
Posted by 守綱寺 at 16:11│Comments(0)
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