2019年05月19日
本堂に座って 2019年5月
先日、あるお寺さんの寺報を開いて、とても久しぶりに小沢牧子さんの文章を目にしました。
10年ほど前に講演会でお話を聞き、また『子どもの場所から』という本を何度も読み返し、子どもたちとの接し方にとても貴重な助言をいただいた、そんな中から、こちらの文章を紹介します。
雨あがりの午後のこと、あたたかな陽ざしのなかを、ひよこ色のセーターを着た一歳の息子と出かけ
息子はいま、よちよち歩きをはじめたばかりの人間初心者である。
とつぜん彼が道ばたにしゃがみこんだ。
何かに見とれている。
私もつられて彼の隣にしゃがんで、いったい何があるのかとのぞきこんだ。
道ばたにはむき出しの排水溝があって、そこを流れる水に、子どもは一心に見入っているのだった。
わずかにくだるゆるい坂道に沿ったコンクリートの細く浅い水路に、きらめく幾何学模様を描いて、澄んだ水が勢いよく流れていた。
粗い舗装のきめが作る砂利の凹凸が規則正しい水の菱形模様を生み、陽をあびて光りながらどこまでも続いていく。
それは思いもかけない美しい世界だった。
私は驚いた。毎日急いで通りすぎていたなじみの道とありふれた風
そのなかに、小さな雑草の列にかくれて、水が絶えまなく描きだすこんな光景が広がっていたとは。
たまたま小さな子どもにつられてのぞきこむことがなかったら、決して気づくことのなかった視界だ。
大人になった人間にとって、道はただ歩き過ぎるための場所なのだから。
もし大人が道ばたにひとりしゃがんで溝をのぞきこんだりしていたら、どうしたの、気分が悪いのですかと、通りかかった人にたずねられてしまうだろ
まだ人生をはじめたばかりの子どもにとっては、毎日が新しさの連続だ。
だから子どもの目はたいてい、大きく丸くひらかれている。
大人は子どもを抱き上げ遠くを見せ、鏡をのぞかせ笑わせなどしては、子どもが生まれてきたこの世の中を見せる。
しかし大人が子どもにするのとおなじように、子どももまた大人の世界を揺るがせ、広げ、おどろかせ、楽しませるのだ。
文字どおり、おたがいさまに。
子どもと暮らすことは、人生を二度生きることだなあ、といつも思っていた。
自分もこんなふうにしておとなになったのか、人間誰もがこんなふうにして育っていくのか、と。
おとなになって当たり前になっていることでも、子どもにはすべてが新鮮だ。
虫を見つけても木の葉が落ちても雪が降っても、どれもはじめて出会うことばかりなのだから。
道ばたの石ころさえも。おとなの生活になぞらえれば、いわば毎日、新しい国を旅行しているようなものだ。
日常に飽きることなど、あるはずがない。
おとなは、自分にとっては見慣れた日常を、子どもに連れられてもういちど旅するのだ。
「そうか、なるほどね」と、あらたに発見し、おもしろがりながら。
ときどき、若い母親たちのための講座に招かれる。
「毎日おなじ生活で、子どもが飽きるだろうから、どこかへ連れていってやりたい」という若い親がいた。
わたしは、「小さな子どもはなんでも珍しいのだから、子どものためにわざわざ連れ出さなくてもいいのじゃない?親をやるのは疲れることだから、あなたが行きたいところへ連れていって、自分のやりたいことにつきあわせるなら別だけれど」と言った。
「ああそうか、子どもはおとなのすることをなんでもやりたがりますものね、生活に飽きるなんておとなの考えなんですね」と、その人は答えてくれた。
「おなじ絵本ばかり読んでほしがるんです。
いろいろな本を読んであげたいと思うのだけれど」と言う人もいた。
「自分のお気に入りができたのね、その絵本をいっしょに楽しんであげたら子どもはきっとうれしいでしょ」と、わたしは言った。
なんだか先輩づらばかりしているな、と苦笑しながらも。
でも、一方的に意見を言うばかりではない。
世代のちがうわたしは、考え迷いながら現代を生きている若い親たちから、いつもたくさんのことを学ぶ。
小さな子どもと、若い親、その親世代、みんな順繰りおたがいさまに、子どもを仲立ちにして教わりあい、子どもをきっかけに、考えあっていく。
暮らしの問題、社会のしくみ、時代と世界のありよう。
おとなは子どもを介して、日々いやおうなしに考え、いつのまにか自分たちの視野をひろげ、考えを深めていく。
子どもはいつの世も、おとなの無心な案内人だ。
(『子どもの場所から』小沢牧子 著 小澤昔ばなし研究所発行 より引用しました。)
近所の新1年生の男の子は、下校の際にふと立ち止まっては虫や花を見ているそうです。
通学班長の在ちゃんは、並んで歩かせるのに一苦労の様ですが、この文章を読んで、こんな子どもらしさを大事にしてあげたいなぁ、と感じました。
Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)
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