2019年09月09日
本堂に座って 2019年9月
あるご縁で“迷惑をかける”ことについて考える機会をいただきました。
そこで思い出したのが、安冨歩先生の『生きる技法』です。
本の帯には“「助けてください」と言えたとき、人は自立している”と書かれています。
あらためて“自立”について、安冨先生の文章から考えてみます。
最初に、「生きるための根本原理」を導入しておきたいと思います。
それは次のようなものです。
★自立とは、多くの人に依存することである
多くの人は「自立するということは、誰にも頼らないことだ」と誤解しています。
私自身、長らくそう思い込んでいました。
しかし近年、それが間違いであったことが明らかにされました。
この原理を発見されたのは、中村尚司さんという経済学者です。
この方は、小学生のころからずっと「自立とは何か」と考え続け、60年間考えて、ようやく「自立とは依存することだ」という驚くべき答に到達されたのです。
中村さんは長い間、このことに薄々気づいておられたらしいのですが、小島直子さんという方の書かれた自伝を読んでいて確信が持てた、と書いておられます。
小島さんは、先天性脳性小児マヒのために手足がほとんど機能しないのですが、多くの人に依存することにより、自立を果たし、一人暮らしを続けておられる方です。
(中略)誰だって、何らかの「障害」を抱えているのです。少なくとも歳をとれば、どこかしら体の具合が悪くなるのです。
ですから、私だって皆さんだって、誰かに依存しないと生きていけないことは、程度の違いこそあれ、小島さんと全く同じです。
ということは、小島さんがたくさんの人に依存することで自立しておられる以上、私だって皆さんだって、たくさんの人に依存してはじめて自立できるのです。
40歳になった頃に、共同研究の誘いで、中国陝西省の黄土高原での調査に参加したのです。
ここで私は、朱序弼という人物と出遇いました。
朱さんは、砂漠と黄土高原との境界線に位置する楡林という街を中心として、その地域の緑化活動に半世紀以上も貢献している植林技師でした。
朱さんはいつも緑化のことばかり考えていて、そのために東奔西走していました。
しかし、その活動からお金を報酬として受け取ることを拒否していたのです。
そしてお金を出してくれる人がいれば、自分では一切手をつけずに、苗木の購入などに充ててしまうのでした。
朱さんは林業研究所の退職した職員でしたから、小さな家とわずかな年金とを得ており、飢えて死ぬということはありませんが、極めて貧乏でした。
にもかかわらず、何も受け取ろうとはしないのです。なぜそうするのか私には、よくわかりませんでした。
しかし、何年か朱さんと付き合うことで、それが彼にとって非常に重要な戦略であることに気付いたのです。
「金を受け取らずに植林に没頭する」という彼の生き方のゆえに、多くの人が朱さんを深く尊敬していたのです。
そうした人々は、それぞれの地位や力に応じて、彼を何らかの形で助けようとします。そのような援助を、彼は喜んで受け取ります。
もちろんそれは、植林のためですが、しかしたとえば朱さんが病気をしたりすると、これは一大事とばかりにみんな大慌てでやってきて、治癒のために手助けをします。
こういう援助を彼は断ったりはしません。
つまり、お金を受け取らないことによって、彼は無償の援助を多くの人から受け取ることができるようになっていたのです。
それゆえ彼は、「何か困ったら、誰かが助けてくれる」と確信しており、何も恐れてはいません。
今も、安心して緑化活動に没頭しています。
自立した人というのは、自分で何でもする人ではなく、自分が困ったらいつでも誰かに助けてもらえる人であり、そういった関係性のマネジメントに長けている人のことだ、ということに気づきました。
こういったことを考えている過程で私は、中村先生の論文に出遇ったのです。
そして「自立とは依存することである」という命題が、私が気づいていたことの本質であることを理解しました。
かくして私は、誰かに依存することに躊躇しないようにしよう、と決意したのです。
(『生きる技法』安冨歩 著 青灯社発行より引用しました)
“迷惑をかける”と“世話になる”の違いは何だろう?と考える中で、「相手との関係性」が異なるのでは…と思いつつ、この文章を読み返しました。
“自立”を“誰にも頼らないこと”と考えると、周りの人との関係が薄くなってしまいそうです。
何でもかんでも人に頼るということではなく、周りの人と良い関係を作ることができる人こそが、本当の意味で“自立”した人と言えるのでしょう。
Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)