2019年09月12日
清風 2019年9月
「砂漠」とそこに「湧く水」(オアシス)、それだけが私にとって人生である、と感ずるようになって来た。
この二つは、私の中でいよいよ鋭く対比するようになって
来ている。
この「砂漠」と「湧く水」と書かれている内容は、親鸞聖人が『歎異抄』後序に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語られていることであると言えるのではないでしょうか。
ここで先ず一篇の詩「くらし」(石垣りん作)を紹介し、その詩を呼んだ詩人・茨木のり子の感想(『詩のこころを読む』をあわせて紹介します。
くらし 石垣りん
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずに生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
さまざまのお経には何が書いてあるのかよくわかりませんが、お経の数も目がまわるほどたくさんあるらしいのですが、中身をぎりぎり凝縮すると「くらし」という詩に近づき、罪ふかき者どもよ、その罪を悟って生きよ、ということではないのかしら、それが石垣りんほど、うまくズバリと言えなかったので、かくもたくさんのお経で、手をかえ品をかえ、言っても言っても言いたりずではないのかしら。
とおもったらお釈迦さまは怒るのかしら。
法事のお経の長々しさに閉口し、しびれきらしながら思ったことです。
一時間のお経より私には石垣りんの、この短い一篇のほうがありがたいのでした。
お経のたとえが出てしまったのも、仏教のもっとも深い部分と通いあうものがあるからだろうと思います。
おぞましい生の実態、見ないですまされたら見たくはないもの、ひたすら覆いかくそうとしてきたのが文明なら、それをはぎとり、二本足の獣、一番残酷な獣にすぎない醜悪さをはっきり見据えようとするこの欲求は、何と名づけたらいいのか。
碁石をパチンと音たてて置くように、「にんじんのしっぽ」「鳥の骨」と布石がつづき「父のはらわた」に至ってギョッとして、受け手も進退きわまります。(略)
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
作者の涙は、読むものの涙へと、つながってしまい、すぐれた浄化作用をはたしています。(茨木のり子『詩のこころを読む」より)
作者・石垣りんは、1919年生まれ。
高等小学校を出てすぐ銀行に就職、女性がひとりで給仕として生涯はたらき続け、そんな中で、戦前戦後を生ききった一人の女性が「言葉の名手になれたのも不思議はなく、それにしても、言葉を得る道もまた難いかなとおもわずにはいられません。」(「 」は『詩のこころを読む』より)
この茨木さんの解説の冒頭に掲げられた「お経」についてのお話、特に「法事のお経の長々しさに閉口し、しびれきらしながら思ったことです。」という一行に、葬儀・法事に願われていること、「罪ふかき者どもよ、その罪を悟って生きよ」という内容は、僧侶(私)への釈尊からの一喝でした。有り難うございました。
現代は、経済成長という一点からのみ全てのことを評価する、異常な時代と言えるでしょう。
1973年に「成長の限界」という警告が出されて、やがて50年。あらためて思います。
第一に、現代人はいのちを産み出した母体である自然を征服すべき客体(資源)として考えることにより盲目的な<進歩>の概念を生み出し、人間も生き物の一種類であり、いのちあるもの全て一ついのちでつながっているということを忘れてしまい、「人間に生まるることをよろこぶべし」というメッセージが当たり前のこととして顧みられなくなったことを。
第二に、「人身受け難し」が仏教のイロハであり結論であると言われてきた意味の開示が、今ほど要求されている時代はないのだということを。
Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)