2021年10月06日
本堂に座って 2021年10月
娘が通っている中学校では、学校として新たな取り組みを始めている様で、「校則について、学校と生徒会が定期的に話し合い、(理由も含めた)結果や経過を書面で届けてくれる」「体育や音楽などの技能教科のテストを無くし、各技能の習熟度で評価する」「毎日の宿題は“課題表”で決められているが、提出しなくてもいい」…など、親にも今までとは違った視点を与えてくれています。
こうした話を聞いて、真城義麿先生のある文章を思い出しました。
過程を認めてあげること ~成績の結果を褒めるよりも~
現代社会は、とにかく成果にのみ関心が向きます。
結果が期待通りでなければ、それまでの過程でどれほどの努力をしていても評価されません。
子どもたちの能力も、入学試験や資格取得の検定、また就職の選考等々で成果を出せる能力として評価されます。
日常的にも、テストの点数・偏差値・席次という数字に、親も子も目が向きます。
その数字は、他者との比較、また自分の過去との比較のための数字です。
また平均値を言いますが、算数の点数と社会・図工の点数を足して科目数で割った数にどんな意味があるのでしょう。
数字で表された成績等は、自動車の計器のようなもので、計器の数字だけ見て走る事はできません。
運転はフロントガラスのはるか先を見ながら。必要に応じて計器を見ますね。
そういう成果主義では、いかに効率的に成果を手に入れるかが重要で、望む結果を最小の時間と努力(と費用)で得る事が「成功」という事になります。
また、全体の中の順位(相対的位置)で成果が左右されるとしたら、最小の努力で最大の成果を上げる一番効率的な振舞いは、他人の学習を妨げることになってしまいます。
他者が沈むことで、自分のポジションが保たれるわけです。そのようにして学級崩壊が起こるケースもあるでしょう。
そういう考え方に立つと、常に現在は次の成果への準備であって、現在そのものに意味を見出す事ができにくくなります。
望む中学へ進学するための小学校(塾の方が効率的なら学校軽視に)、高校入学のための中学生活(クラブ活動も)、大学合格のための高校生活(推薦制度も含めて)、よりよき就職のための大学となり、そこでの学習や努力は次の成果のための準備であって、あくまで最大関心は成果にあります。
とするならば、もし次の成果が確実に、望む形で得られると分かっていれば、その準備としての学校生活はほとんど意味を持ちません。
ビデオやDVDのようにもし早送りができるのならば、早送りをしてしまいたくなりますね。
逆に、成果が得られない事がはっきりしていれば、やはり早送りしたい。
あるいは消去してしまいたい。
学習そのものに意味を見出すことができません。
入院期間中は退院という成果への準備、退院できたら入院中のことなど忘れて前を向こう。
退院できなければ、入院期間の全ては無駄に見える。そのようにしながら、全人生が費やされていくならば、私たちは一体いつ生きていることになるのでしょうか。
与えられた現在を精一杯生きて、その上で如何なる結果も引き受けるというところに、人生の意義や喜びを、私たちの先達は見出して生きてこられたのでしょう。
もし成果・結果をいうならば、人生全体としての大目的をこそ目指すべきです。
子どもの成績を見る時も、親の関心は結果の数字ではなくあなたの成長なのだと、「あの苦手な算数でこんな点数が取れたなんて、毎日とってもよく努力したね」と、結果を褒めるよりも、過程を認めてあげてほしいものです。
また、他と比べて一喜一憂するのでなく、自己ベストを更新し続けていくことをめざしてほしいものです。
(『今、教育の現場では…』真城義麿 著 難波別院発行より引用しました)
つい先日のテストでも、点数や順位を見て一喜一憂してしまいました。
テストの結果は「何を間違えたか、何故間違えたか、次はどうするか」を考える大事なチャンス。
“テストは結果よりも過程”と書いてある本も、ちゃんと手元にありました…。
Posted by 守綱寺 at 12:03│Comments(0)
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