2023年06月10日
本堂に座って 2023年5月
近ごろ各地の学校で、放課後や学校に行かない選択をしている子どもたちの「居場所づくり」という話を聞くことが増えてきました。
放課後については、保護者の帰宅時間まで学校に残る時間・場所を作ってくださっています。
また学校に行かない選択をする子には「フリースクール」が増えてきています。そんな子どもたちの「居場所」について、小沢牧子さんが書いてくださっています。
多くの専門家、とくに「有名な」専門家は、社会を動かす権力をもつ人びとの意向や都合を、学問的な言葉を使って世の中に流す仕事をしている。
だからその言説は、しばしば人びとの生活を、事実からズラしていく。
それなのに、専門家とはえらくて間違いはしない人ということになっているから、生活の事実つまりほんとうのことのほうが軽視され、ゆがめられ、ときには覆い隠されてしまうことが、あちこちに起こる。
親子関係とくに母子関係ばかりが強調され、その陰に「子子関係」の大切さが見えにくくされてしまうのも、そのひとつだ。
子どもと暮らせば、子どもが「友だちといっしょにいたいよ」と、いつも身体で伝えていることがよくわかるのに。
子どもがいちばん元気で満足した顔をしているのは、友だちと思い切り遊んだときだと、まわりのおとななら誰でも知っているのに。
学校に行っている子どもたちについても、もちろんおなじだ。
ところが学校といえば、とかく学力、進学、規則への服従と、おとなの願望ばかりが語られる。昨今の学力論争も、子どもの事情とは無関係に白熱するばかりだ。
もちろん学校制度は、国家という権力がつくったものだから、基本的には、その都合に支配されている。残念でも、それは否定しがたい現実だ。
しかし一方で、そこに集まり過ごす子どもたちの側の現実も、またある。子どもの現実認識に沿った定義は、「学校とはいろいろな友だちと過ごす場所のこと」というものであろう。
それはシンプルな事実そのものであり、しかも子どもの日常にとって、重要な意味を持っている。
子どもはみずから学び育つ生きものだが、そのためには何がしかの元気が必要で、その元気は仲間といっしょにいることで生まれるからだ。
その意味では、地域の学校ほど便利で貴重なところはない。
子どもが住む身の丈の地域、その地域に暮らすさまざまな子どもたちが、一日の長い時間そして何年にもわたる長い期間を、いさかいやもめごとをも含めて、なじみ合って過ごすことができるのだから。
子どもはおとなに、暮らしの原点を思い起こさせる。
「学校は、地域の仲間と過ごす居場所」も、譲れない原点のひとつだ。学校に通わなくなった子どもたちや親たちが求めてつくった場所は一般に「居場所」とよばれる。
学校外の「居場所」はこの十数年の月日のなかで、増えていく一方だ。「学校には行かないで、居場所に行っている」という子どもにもたびたび出会う。
「居場所」はますます数を増やしていくのだろうか。でも、ちょっと待てと思う。学校の居場所性をあきらめてはならないと思うからだ。
学校には期待できないからと、学校の外に居場所をつくることは、いま現在がだいじな子どもにとって現実的な方策なのだとはわかっている。
そこで解放された子どもたちの元気さに接すると、いつもうれしい。しかし、居場所性はどの子にとっても重要なのだ。まさに学校のなかにこそ。
もし、居場所を望む子は学校の外へ、学校にくる子は居場所性など期待するな、と二つに分けられていくとしたらそれこそ問題だ。
地域の学校に、さまざまな子どもが集まる。親たちが出会う。基礎的な学習もだいじだが、学校の居場所性もそれに劣らずだいじだと考えつづけたい。
(『子どもの場所から』小沢牧子 著 小澤昔ばなし研究所発行より引用しました)
子どもたちにとって「居場所」があることはとても大切です。小沢さんも言われますが、できることであれば、特別な場所を作るのではなく、学校や家庭・近所の遊び場など、日常的にいられる場所が「居場所」となるよう考え続けたいものです。
Posted by 守綱寺 at 10:51│Comments(0)
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