2024年05月16日
本堂に座って 2024年4月
今回も中島岳志さんの「利他」についての文章を紹介します。「利他」の基にある相手への「共感」が、実は相手を苦しめているかもしれない…というお話です。
ここで少し、「共感に基づく利他」の問題を考えておきましょう。通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われています。「頑張っているから、何とか助けてあげたい」「とってもいい人なのに、うまくいっていないから援助したい」――。そんな気持ちが援助や寄付、ケアを行う動機づけになるのではないでしょうか。他者への共感、そして贈与。この両者のつながりは非常に重要です。コロナ危機の中でも、窮地に陥った人たちへの贈与は、様々な共感の連鎖によって起こりました。これはとても意味のあることです。しかし、一方で注意深くならなければならないこともあります。共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、どのような思いに駆られるでしょうか。おそらくこう思うはずです。――「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」人間は多様で、複雑です。コミュニケーションが得意で、自分の苦境をしっかりと語ることができる人もいれば、逆に他者に伝えることが苦手な人もいる。笑顔を作ることも苦手。人付き合いも苦手。だから「共感」を得るための言動を強いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いるでしょう。そもそも「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てきます。「こんなことを言ったらわがままだと思われるかもしれない」「嫌なことでも笑顔で受け入れなければいけない」「本当はやりたくないのに」……。そんな思いを持ちながら、「共感」されるために我慢を続ける。自分の思いを押し殺し続ける。むりやり笑顔を作る。そうしないと助けてもらえない。そんな状況に追い込むことが「利他」の影で起きているとすれば、問題は深刻です。
渡辺一史さんが書いた『こんな夜更けにバナナかよ』という本があります。この本の主人公は鹿野靖明さん(1959年―2002年)。彼は進行性筋ジストロフィーを抱えており、一人では体を動かせません。痰の吸引を24時間必要とするため、必ず他者のケアが必要になります。鹿野さんは自立生活を望み、ボランティアと交流しながら生きる道を選択します。彼の特徴は、強烈な生きる意志。「強いようで弱くて、弱いようで強い。臆病なくせに大胆で、ワガママなわりに、けっこうやさしい」。そんな鹿野さんは自分をさらけ出し、ボランティアとぶつかり合いながら、生きていきます。彼はイライラが募ると、怒りを露わにし、ボランティアにぶつけます。深夜に突然、簡易ベッドで寝ているボランティアを起こし、「腹が減ったからバナナ食う」と言い出したりします。ボランティアも腹が立つ。感情がぶつかり合う。しかし、そんな衝突の中から相互理解が生まれ、ボランティアの側の生き方が変わっていく。助けているはずが、いつの間にか助けられている。そんなケアをめぐる不思議な関係性に迫った名作が『こんな夜更けにバナナかよ』です。
鹿野さんとボランティアの関係は、「共感される人間にならないと助けてもらえない」という観念を突破し、その先の深い共感に至ることで構築されたものですが、鹿野さんには、他者とまっすぐぶつかるこのとのできる才能があったと言えるかもしれません。そして、このような関係性の構築には時間が必要になります。鹿野さんのケースを前提に、「より深い共感」を利他の条件にしてしまうと、こんどは自分の思っていることや感情を露わにしなければならないという「別の規範」が起動してしまいます。そうすると、「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」という新たな恐怖が湧き起こってきます。いずれにしても、「共感」は当事者の人たちにとって、時に命にかかわる「脅迫観念」になってしまうのです。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)