2024年05月16日
今日も快晴!? 2024年4月
毎月2回、お寺の本堂で絵本の読み聞かせ会を開催していますが、参加者の方からこんな相談を受けることがあります。「うちの子は何もしていないのに、他の子に突き飛ばされました」、「叩かれました」。こうした話は、会をはじめた頃から定期的に聞く問題で、子どもが何人か集まれば、手が出てしまうタイプの子は必ずいます。そして、大人しくてじっとしているタイプの子が、たまたま近くにいただけで突き飛ばされたり叩かれたりしてしまうのです。
自分の子どもが大人しかったこともあり、最初の頃は、(手が出てしまうような乱暴な子は、出来たら来て欲しくないな)と思っていました。けれど、お寺の本堂は仏さまの場所です。私だったら、「乱暴な子はお断り」だけれど、仏さまだったらどうだろう?と考えました。そうすると、私がこれまでお寺で見聞きしてきた話のどこにも「乱暴な子はお寺に来てはいけない」とは書いていないのです。(仏さまは、分け隔て無くどなたでもお救い下さるのに、大人の都合で「乱暴な子はお断り」にするのは、何か違うなぁ。でも叩かれて泣く子がいるのも悲しいし、絵本の会はどうしてゆくのが正解なんだろう)と、ずっと考えて続けていました。
絵本の会で子どもたちを観察して気づいたことは、大人の目からは乱暴に映る行動も、子ども目線だと「紙芝居をもっと近くで見たくて近づいたら、前に何かがいたから押してみた」とか、「自分の前で立って絵本を見ている子がいて、絵本が見えなくて邪魔だった」とか、何かしらの理由があってそうしているだけで、乱暴に見える行動が実は、絵本に強く興味を持つ姿だったりするのです。
最近たまたま手にした本に、高橋源一郎さんと辻信一さんの『「雑」の思想』(大月書店)があります。「雑」というテーマに取り組んだ非常に面白い本でしたが、その中で、高橋さんが子育てについて語られている部分がありました。
「子育てはまさに「雑」の極みです。(有名な育児書を横に置いて子育てをやろうと思ったら)全然違う。いくら育児書を読んでも、鼻水が詰まったときはどうするかは書いてない(笑)。途中で考えるのをやめました。目の前でうごめいている、人間もどきの存在と共に生きるしかないって。・・・生きるって教えられるわけでも、正しい生き方があるわけでもない。ただ生きているだけで、生き方はみんな違う。ある意味行き当たりばったりでやっていくしかない。僕たちの中にもともと「雑」の本能が備わっているのに、・・・それをスポイルするようなことを社会や教育がやっているから、生きることがおかしくなっちゃう若者が出てくるのかな・・・」
絵本の会の最中の本堂は、まさに「雑」です。雑然、雑多、雑音、雑談etc.そんな中で、目の前の子どもと向き合って、行き当たりばったりやっていく。「正しい絵本の読み聞かせ会」など、ないのだと思います。参加者の方とお話しする中で、子どもの行動で悩み「他の子に危害を加えてしまうから、子どもが集まる場所には行きにくい」と、居場所を求めてあちこち彷徨う中で、「ここなら受け入れて貰える」と、お寺の絵本の会に辿りついた方の話も聞きました。「手が出る子も、本堂に居ても良い」のです。でも同時に、叩かれて嫌な気持ちになったら、「叩いたら痛いよ。嫌だよ。悲しいよ。やめてね。」と相手に伝えても良いのだと思います。(こんなことを言ったら、相手にどう思われるだろう)と気になって、不満を感じてもそれを口に出せないのが一番のストレスです。子どももママも、色んな人がいるままで良い。雑で良い。お寺の本堂は、「そのままのあなたで良いよ」と仏さまからお墨付きを貰える場所です。それはなんて安心出来る心地よい場所だろうと思います。