2022年02月14日
清風 2022年2月
人はひとりでは、生きられへんと、ぼくはほんとにそう思います。もし仮にスーパーマンみたいに万能な奴がいたとしても、そんな人生、なんぼのもんでしょう。すべての願いがすぐに叶うなんてすごく気持ちが悪い。なんの魅力も感じないです。
『何が不自由で、どちらが自由か』牧口一二著 河合ブックレット26
河合出版発行 2000年刊(第5刷)
著者略歴
1937年、大阪生まれ。1歳でポリオ(脊髄性小児マヒ)にかかる。
小学2年の2学期から松葉杖にて通学。
中高終えて美術学校卒。
就職できず(54社受けたが不採用)、障害者を自覚する。
美術学校時代の友人に支えられ、26歳で社会に出る。
グラフィックデザイナー(職歴34年 合名会社おばけ箱代表)。
『ちがうことこそええこっちゃ』
(NHK出版)他多数。
人とは何か。人とは何をなすべきか。人とは如何にあるべきか。
2021年は聖徳太子の1400回忌にあたり、太子の十七条憲法によりながら、太子も含めた「ひとりの人」が生きることについての課題に対する太子の学びの姿勢は、現代にも通じる普遍性 ― つまり学びの視点を教えるものとして、上記の点を私たちも学ぶべきであると教えられたことでした。
現代に生きる者も、やはり課題を担っている。
分かったこととして済ませていることを、「それでいいのか」と一人ひとりが問われていることに、気づけるか、否かと。
ここでいきなりですが、『何が不自由で、どちらが自由か』によりながら、「障害者ってどんな人のことなんやろ?」ということを考えてみたいと思います。
ここでやっぱり正確にいうとね、生きようとしている、その道を邪魔されてる人が全部障害者やと思っているんです。
ぼくは、生きようとする道を邪魔されてない人は障害者ではないと思います。
どんなに両目が見えなかろうが片足であろうが、自分の生きようとしている道をそのとおり許してもらっているというかね、進むことが出来る立場におる人、そういう環境を与えてもらってる人は、それは障害者ではないという気がしてるわけ。
だから人間の身体つきの問題とか、精神のありようの問題とは違うと思うんですよ。
(略)高校、美術学校(すべて普通校)全く就職出来ず(54社受けたが不採用)以後2年間就職活動というのを止めた。
止めてしもて家の中に閉じこもって、2年間じいーっとしてたんですよ。
つまり、ゴロゴロしてたわけ。で、この期間がね、ぼくが一番障害者だった時ではないのかなと今でも思ってる。(略)
だけど美術学校の時代の友達が助けてくれて、やっと社会に出られたですよね。
社会に出ることが出来て、それからあとはいろんなかたちで自分のやりたいことが少しずつ少しずつ、こう範囲が広がっていくわけですね。
今57歳でしょう。
いままでの自立観はまちがっていないか?
そうだから、見かけはぼくは松葉杖をついているという派手な障害者なんですけど、生活の中身というのは、ほとんど障害者と違うという気がしてるわけです。
だから時々ね、障害者問題で大体こうやって話を聞いてもらうことが多いんですけど、心のどっかでぼくみたいな立場の人間が障害者の話をしていいのかなぁという感じっていうのは、ずうっと引きずってるね。
引きずってるんだけど、それでもやっぱりやっていこうというふうに思ってるのは、ほんとに今日のようにこうやって丁寧に考えてもらえるような機会って、みんな持てているんかなぁとやっぱり思ってしまうからぼくみたいなもんでも、ちょっとくらい意味があるんかなぁと思ってやっているわけです。(略)
ここで、最初にも挙げた「分かっている」、つまり「当たり前」と済ませてきたことによって、現代に生きる私どもは、重大な点を見過ごしてきてしまっていることがあることを教えられてくるのではないでしょうか。
「丁寧に考える課題」だと気づくチャンスを見過ごしてきたのではなかったでしょうか?
ちょっとずつ、ぼくが何を言いたがってるか、わかってきてくれはったやろか、まだあかん?つまりね、人間はひとりで生きてる必要がなんにもないということを、みなさんに伝えたいわけです。
自立、自立というけど、自分で何でもできる人が一人前の人間だなんて思ってしまったら大間違いや。そのことを伝えたいわけです。
ではその「大間違いや」と指摘されている点を、次号でまた『何が不自由で、どちらが自由か』から紹介させていただきます。
Posted by 守綱寺 at 16:40│Comments(0)
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