2023年09月13日
清風 2023年7月
終戦記念日? 敗戦記念日?
廃戦記念日
“どうする日本” 8月15日とは?
8月15日 敗戦とはどういう日なのか?どういう日とすべきなのか。
廃戦(憲法第9条の願い)とはどういうことなのか。
我が国の場合、敗戦がきっかけとなり「平和憲法」を制定しました。
「平和憲法」と呼び習わしているのですが、それは簡単に言ってしまえば、先ずそれは第9条の条項があるから、ということなのであって、それ以上でもそれ以下でもない、「当たり前」と見過ごしていける程度のものになってしまっているのではないか ―
これは、少し言い過ぎかもしれません。
しかし、それは大変残念な事態なのだとは思いませんか?「平和主義」の平和とは、どういう事実を指すのでしょうか。
対話こそは暴力・戦争に対する真の意味での反対語なのです。
『対話する社会へ』(P182)
岩波新書2017年1月刊 暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)著
ところが、最近の社会は対話しにくい、むしろ対話の価値を認めようとしない社会になりつつある … と、日本において対話がなかなか根付かない具体例(経験)を、暉峻さんは次のように紹介されています。
厚生省(当時)局長が、国会でウソの答弁をしたために私の正しい研究の調査結果のほうが間違っていることにされ、文部省(当時)検定によって教科書から削除された経験を持っています。
(私の3年あまりの抗議によって最終的には教科書に復活しました。)その時私は尋ねました。
「もし、いま、外で雨がザーザー降っていても、局長が晴れと言ったら晴れになるんですか」と。
「はい、そうなります。」と課長は平然と答えていました。(同上書P167~P168)
最近の国会での答弁でもありますね。
「記憶にございません」と首相や大臣が答えて、事態は曖昧なままになっていて、それ以上進展しない(大臣の責任は問われない)まま、うやむやになってしまっている事案があります。
(安倍首相の時の官僚で、報告書の改竄を命じられ、結局自死した事件など。)
人間同士のもめごとを解決する方法は二つあります。
一つは暴力。ケンカをして腕力で黙らせる。
もう一つは言葉。話し合って折り合う。同じように国と国のもめごとを解決するにも二つの方法があって、一つは暴力による戦争。もう一つは言葉による外交です。
日本の場合、前者は防衛省、後者は外務省が担当します。
第9条は「戦争放棄」を命じています。
これは言うまでもなく、外国とのもめごとを解決する手段としての暴力、つまり戦争を否定し、その一方で言葉、外交交渉による解決を求めているのです。
さて、ここまで考えてきて思われることは、憲法改正の名のもと、第9条を変えて普通の国になると言われますが、これはどういう内容を指しているのか…という疑問です。
それはもう、言うまでもないことでしょう。
権力を笠にして命令に従え、言葉でのやりとりをさせない、ということになっているのですね。
ここであらためて参考にしたいのは、残念ながら憲法に先がけて改正されてしまいましたが、改正前の「教育基本法」(1947年3月31日公布)の前文です。
憲法第9条に掲げられた戦争放棄による国際平和実現という理念を受けて書かれたものであることは、明らかでしょう。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。
この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。(教育基本法 前文)
この教育基本法は、第一次安倍政権の2006年12月に改悪されてしまいました。
平和主義の「平和」とは、とりもなおさず「言葉の戦争」です。
国際紛争を戦争によらず解決するには、国、特に外務省の言葉による交渉能力が不可欠です。
上記、教育基本法前文に掲げられた「真理と平和を希求する」にあたっては、「清風」2022年5月号の巻頭で紹介した「絶対無限を追求せずして」は、不可能なことなのです。
憲法改正の前提として「教育基本法」を改正(改悪)したのは、実は「清風」2022年7月号の巻頭言で「暴力は言葉の放棄である」(毎田周一)を紹介したように、「言葉の戦争」である“対話”には欠くことのできない前提であるからです。
Posted by 守綱寺 at 10:59│Comments(0)
│清風