2023年12月26日
清風 2023年12月
今 坂村真民
今を生きて 咲き
今を生きて 散る
花たち
今を忘れて 生き
今を忘れて 過ごす
人間たち
ああ 花に恥ずかし
心いたむ日々
<出典 『歎異抄に学ぶ ―人間そのものからの解法―』法蔵館刊
神戸和麿 著 P167より
今月号では「忌と命日」によりながら、仏事・法事(年回法要、一周忌・三回忌など)の折に確かめておくことについて記してみます。
Ⅰ 「忌」の字について
「忌」は「己」と「心」から作られている。
忌む … 嫌う、はばかる。
己の心を嫌う、はかる(比べて、評価する)
その「忌」の字を作っている「己」に似た文字として
① 己 … 読み「おのれ」自分のこと
② 已 … 読み「すで(に)」過ぎた過去を表す。
③ 巳 … 読み「み」蛇のこと。(巳年 十二支の一つ)
人間の心は絶えず判断をし、評価をしています。そして己(自分・私)は己の下した己の判断に囚われています。例えば、善・悪の評価をして、善なることは受け入れましょう、悪なるものは受け入れません、と判断をしていきます。日常生活では「思いどおり」になれば受け入れ、思いどおりにならないことは受け入れを拒否します。しかし「思いどおりになったこと」は、成ってみれば全て「当たり前」として見過ごしていくことになるのです。
Ⅱ 命日について
本願寺8代蓮如上人は、「御文」(手紙)の3帖目9通を次のように書き始めておられます。「そもそも、今日は(親)鸞上人の御明日として、かならず報恩謝徳のこころざしはこばざる人これすくなし」。この冒頭の文で注目したいのは、「命日」と記すところを「明日」と書いておられる点についてです。
常識としては「めいにち」といえば「命日」という漢字を当てるところですが、蓮如上人は「明日」の字を当てておられるのです。
この事実から私が特に取り上げたいのは、「命日」とはご縁のあった亡き人からそこに集った人への「贈りもの」という意味があるのではないか、ということです。この御文の最後で「わがこころのわろき迷心をひるがえし」と確かめておられます。これは、命日に仏事を行うのは「我がこころこそ「お粗末」ないたらぬものである」と気付く機会であるのに、「今日は亡くなった親も喜んでおってくれます」というお礼の言葉のみで終わるならば、まことに残念なことであるよという蓮如上人からのメッセージなのだと思います。また、なぜ亡くなった方を「ほとけさん」と呼んできたのかを改めて思い起こさねばならないということでもあるのでしょう。
私が命をいただいてきたこと、そしてまた、たくさんの方とのご縁をいただいておりながら、その事実を「当たり前」のこととして見過ごしてきているうっかり者であったこと、それに気付かされていく機会とすべきである、ということが、「命日」についてわざわざ「わがこころのわろき迷心をひるがえして」と記されなければならなかった理由なのでしょう。
私のこころは、「親・先祖が迷っているから」「法事を勤めないでは世間体が悪いから」となるのです。そうではなくて、「迷っているのは私だった」という目覚め、それが、わざわざ「命日」と書くべきところを「明日」と書かれた蓮如上人の配慮であり、先輩方が命日に行う行事も「法事・仏事」として勤められてきたのでしょう。
ここで使われている法事の「法」は、インドの言葉では「ダルマ」といい、中国で「法」の字が当てられたのです。意味は「真実の道理」で、お釈迦様もその「法」によって、成仏された人・ブッダ(仏・ほとけ)と呼ばれてきたのです。
「迷っているのは、先祖ではなく私だった」という気づき・目覚め、それこそが仏式で行事を行う意味であったのです。
「ああ 花に恥ずかし」と冒頭の詩に読まれているのは、この「気づき・目覚め」をさすのでしょう。
Posted by 守綱寺 at 17:30│Comments(0)
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