2023年09月13日
清風 2023年9月
家は雨露をしのぐほど
食は飢えをしのぐほど 世阿弥
世阿弥は600年程前の能の役者であり、作者である。
これは能の役者としての彼の覚悟といったものを、私共に教えてくれるものといえよう。
この世阿弥の言葉は、たんに節約を説いたものではなく、「モノ」には「モノ」の本来の「分」があり、もしその「分」を知れば、私の生きることの本来の「分」があきらかになると教えていてくれるものであろう。
立派な家、名誉、地位を持たなければ意味がないと考えてしまうとすれば、その時、逆に、私の生きる姿勢の貧しさを露呈しているのだし、生き方に顚倒が起こってしまっているというのである。
何故なら、私の生きる意味を、立派な家に住むことや、豪華な食事をすることのような、外なるモノに置くならば、その時私は、私の生きる固有の意味を喪失してしまうことになるからである。
家の分は雨露をしのぐこと、これが第一義であり、食は飢えをしのぐことが第一義である。
家や食等の第一義が明瞭になると、雨露をしのぎ、飢えを癒して生きることの意味、つまり生きることの第一義がはっきりするというのである。
(2面)
男は女でないから女がわからない
女は男でないから男がわからない
そのわからないところでこそ
男女は一つとなる (毎田周一)
いよいよ結婚シーズンである。あちらこちらでスピーチが始まる。とにかく、2人の男女が一緒になるのだから、まあ、いろいろある。
しかし、人間 -人の間- と書くように、相手あっての私なのだ。あんまりわかったようなことを言わないで、2人になったところから新たに始まるということにしよう。
お互いに、やっぱり一緒になろうと思ったのだから、2人に責任がある。誰にも責任を転嫁することはできないのだ。
ところで結婚というのは、いうまでもなく、一組の男女のいるさまざまな風景である。背景はどうあつらえようと自由である。
結婚生活をうまくやる方法を教えようか。そんなうまい方法があるなら、僕が聞きたい。他人の意見を聞いてやるのは二番煎じで面白くない。モデルがあるようなものは,初仕事ではない。2人の結婚は、とにかく2人の初仕事だ。
比較する必要がないから面白いということを知ればよいのである。
Posted by 守綱寺 at 11:53│Comments(0)
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